無謀な作戦の代名詞、インパール作戦から祖父を生かしてくれたミャンマーのために!Pasona Thailand、江口奈緒記氏

2016.02.18

生まれながらにしてミャンマーとのご縁を感じていた江口氏。そのご縁とは、なんと第二次世界大戦にまで遡る。江口氏の祖父は、現在は日本軍にとって無謀な作戦の代名詞と言われるインパール作戦の数少ない生還者だった。つまりミャンマーが江口氏の祖父を生かし、ミャンマーのおかげで江口氏が存在するとも言えるのだ。そんなミャンマーと、祖父に恩返しがしたいと思い続けていた江口氏は、ミャンマーで人材コンサルティング会社を立ち上げ、現在はPasona Thailandでタイとミャンマーを中心に活躍している。そんな江口氏に、今までの経験とタイとミャンマーにおける最近の人材マーケット事情を伺った。

《プロフィール|江口奈緒記氏》
1986年和歌山県生まれ。関西学院大学理工学部卒業後、慶應義塾大学大学院理工学研究科へ進学。2011年に修士課程を修了した後はヒューレットパッカードの販売代理店で法人営業を経験。その後は祖父と深いご縁があるミャンマーにて人材コンサルティング会社立ち上げ。ミャンマー人と日本企業をマッチングさせることに注力した後、Pasona Thailandに転職し、タイとミャンマーを中心にASEAN地域の人材紹介に携わっている。

生まれながらのミャンマーとのご縁

ー現在はPasona Thailandで活躍中の江口さんですが、それ以前はミャンマーで人材コンサルティング会社を経営していたそうですね。ASEANの中でもなぜミャンマーだったのですか?

実は、ミャンマーには生まれながらご縁があります。祖父がインパール作戦の生き残りなのです。インパール作戦というのは、1944年、日本軍が援蒋ルートを断ち切るためにミャンマー(当時はビルマ)に近いインドのインパールという町を攻めるという作戦です。その作戦は大失敗に終わってしまい、今では無謀な作戦の代表例として知られています。

5万人以上の日本兵が犠牲になったと言われている中、私の祖父は生きて帰ってきたのです。その事は子供の頃から知っていたので、必然的にミャンマーには思い入れがありました。

 

ミャンマー特有の労働市場における課題に直面・・・

―なるほど、それは運命ですね。ミャンマーでは具体的にどのような事業を展開されていたのですか?

主に日本企業へのミャンマー人の人材紹介をしていました。最初から人材紹介に特化していていたわけではなく、ミャンマーにある日本企業を回ってヒアリングしていると、どこも優秀かつマネージャークラスのローカル人材が不足しているという事に悩んでいました。

やはり中小企業はもちろん、大企業でさえも、当時はまだミャンマー支店の立ち上げ段階である場合が多くて、しかもそれを1人や2人でやらざるを得ない状況の企業がほとんどでした。

 

―実際、そのような日本企業のニーズを満たす人を紹介するのは難しいのではないですか?

日本企業とローカル人材の価値観の違いというのはどこの国でも課題にはなると思いますが、ミャンマー特有の課題としては、日本企業が欲しがるような優秀なミャンマー人に限ってミャンマーの外で働いているという点です。

長く続いた軍事政権の影響で、そのような優秀な人材が流出してしまっているのです。

一方で日本企業も無駄な人件費は割けないということでかなりローカル人材の採用に慎重になっていました。日本語がペラペラで、ITに強くて、かつマネージャー経験があるといった、かなり高い条件が多かったです。そんな人材はかなり希少で、実際はずっとポストが空いたままという話もよくあり、大変でした。

しかし地道にミャンマー人材の開拓と日本企業のニーズを掘り下げていくと、うまくマッチングさせることもできました。

 

―逆に、日本企業で働こうと思うミャンマー人は、何を考えているのでしょうか?給料が高いからでしょうか、それとも日本企業への憧れとかですかね?

たしかに高い給料は求めていますね。ひと昔前は200ドルや300ドルで雇えたのが、最近は最低500ドルは欲しいと。日本軍がミャンマーを占領していた時の悪い印象をまだ持っているミャンマー人もいますが、日本人が好きだと言ってくれる人も多いです。個人的には、ミャンマー人と日本人の国民性が近いなと思います。親日かは人それぞれですけど、ミャンマー人は皆優しくて、礼儀正しいですね。

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ミャンマーでの生活面の苦悩を乗り越えるには!?

―ミャンマーで一番辛かったことは何ですか?

言い出したらきりがないですが、何よりミャンマーに来たばかりの2014年4月頃の生活が辛かったですね。駐在員として来たわけではないので、シャワーは水しか出ないし、電気の周りを触ると感電するような超ローカルアパートに住んでいました。最初はもうストレスがすごくて、全身蕁麻疹で、お金もないし、日本の友達にも会えないし過酷な生活でした。

 

―やはりそういう事は、新興国で働くうえでの第一関門ですよね・・・どうやってそんな環境を乗り越えたのですか?

辛いけれど、今は特別な経験を積んでいるんだと自分に言い聞かせていました。こんな経験は20代のうちにしかできないし、たとえ回り道でも何か意義があるはずだと。10年後に思い出して笑えるはずだと無理やりポジティブに考えていました。

 

―そのポジティブ志向はASEANに限らず、海外で働くのには必須ですよね。

人にとよって合う、合わないはありますね。駐在員としてミャンマーに来ていた人が失踪したということもありました。でも、意外となんとかなるものですよ(笑) 3ヵ月くらいすると、もう開き直って、どん底まで落ちたら、もうこれ以上落ちることはないし、あとはひたすら良くなるだけだと思えてきました。

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Pasona Thailandで新たなステージへ!

―Pasona Thailandへ転職されたきっかけは何ですか?

実はいくつか誘いがあったのですが、その中でもPasona Thailandに決めた理由は、ミャンマーには海外ビジネスの素人のまま行っていたので、一度きちんとノウハウが確立された環境に身を置いて経験を積みたかったからです。Pasona Thailandは、タイの人材紹介会社の中でも新顔の部類で、これからもチャレンジできそうだったのも魅力でした。ミャンマーでの再挑戦と言う意味でも、タイの第一線で身を置く事が近道だと考えています。

12735829_1083336241729226_84366564_n(JOB博ミャンマー~日本&ミャンマー就職~セミナーにて登壇する江口氏)

 Comfortable zoneを抜け出せ!

―読者へのメッセージをお願いします。

ミャンマーでの辛い時期を振り返ると、壮絶な経験をしても意外と人間死なない、ご飯なくなったら食わしてくれる人もいるし、寝床がなくなっても何週間かだったら短期的にも滞在させてくれる人に出会えたので、意外となんとかなるものです。リスクを恐れて行動できないのは、やっぱりもったいないと思います。

いざミャンマーに飛び出てみると、見る世界が変わりました。日本は平和な国なので、普通にしていれば世界中の人々がうらやむような生活ができますが、一度その“Comfortable zone”を抜け出して、世界を見に行ってほしいです。たとえ失敗したとしても、日本に帰国すればよいだけですし、確実にそういったチャレンジを評価してくれる人はいますよ。