アメリカ留学中にたまたま出席した、ミャンマーとアメリカの外務大臣の記者会見をきっかけに、ミャンマーに関心を持ち始める。これからのミャンマーと日本の将来のために、ゼロから両国の大学生を繋ぐ学生会議を実現。思い立った日からわずか10ヵ月で会議を実現させた立命館大学に在学中の橋本氏に、「学生だからこそできること」を取材した。
《プロフィール|橋本悠氏》
立命館大学国際関係学部入学後、1年時の夏から2年間ワシントンD.Cのアメリカン大学に留学。学位を取得して帰国後、ミャンマーの商工会議所にて半年間のインターンシップ。その後ミャンマー人4人と日本人7人の大学生で運営されるIDFC (International Development Field Camp)を立ち上げ、2014年12月14日から19日までミャンマーと日本の間にある社会的課題やキャリア形成をテーマにした学生会議を開催。
目次
ミャンマーと日本の大学生による、ミャンマーと日本の大学生のための学生会議を他国に先駆けて行う。
―IDFCとはなにかを教えてください。
一言でいうなら、ミャンマーと日本の学生会議です。2014年12月にヤンゴンで、両国から15名ずつ計30名の参加者を集めて、前例のなかった二国間の学生会議を実現しました。IDFCは、「ミャンマーと日本の関係を、若者の間から築き上げていこう」というビジョンを掲げています。というのは、20年後や30年後の将来を担うのは今の若い世代である自分達で、今から交流機会を設けて将来のミャンマーと日本の関係を築いておくことが重要だと思うからです。Project by the Youth, for the Youthということで、企画から運営まで両国の若者だけで行ったのが一つの特徴です。
―そもそもなぜミャンマーで学生会議なのですか?
ミャンマーは2011年に軍事政権から自主的に民主化したばかりなので、まだ日本とミャンマーの関係は始まったばかりです。それだけに、多くの日本人がミャンマーに対して持つ印象は、「ビルマ」、「アウン・サン・スーチー」、「軍事政権」くらいだというのが現状です。でも実は、政府間や企業間では日本とミャンマーの関係はどんどん深まっています。私たちIDFCは、草の根レベルでの交流も行っていくことで、将来のより良い関係が生まれると考えています。
―ミャンマーに興味を持ったきっかけは何でしょうか?
ミャンマーに興味を持ち始めたのは、ワシントンD.Cにあるアメリカン大学に留学していた2012年5月ごろです。ちょうどミャンマーが民主化に舵を切って間もない頃です。そのころ私はワシントンD.Cの共同通信社でインターンシップをしていました。ある日ヒラリー・クリントン国務大臣が記者会見をするということで、特別に連れて行ってもらいました。それがたまたまミャンマーの外務大臣との記者会見だったんです。自分の目の前で、ヒラリー・クリントンさんが「これからはミャンマーの時代です。アメリカの企業はミャンマーにどんどん進出・投資していくでしょう。」と言いながら経済制裁の解除と民主化の支援を発表しました。
それがすごく衝撃的で、そこからミャンマーに興味を持ちました。特に私は、国際政治学を専攻しているのでミャンマーという国が、アメリカや外国からどう見られているのかということに視点が向きました。アメリカが経済制裁を解除してから日本企業も動き出したというのもおもしろかったですね。将来的には国際協力の道に進みたいと思っていたので、ちょうど開発の分野で注目されているミャンマーでインターンシップをしたいと思い「ミャンマー インターンシップ」と検索して出てきた、経済産業省が行っているインターンシップに半年間いったというわけです。
橋本氏の運命を変えた記者会見
―ミャンマーでのインターンシップでは何をされていたのですか?
インターンシップ先は、ミャンマーの商工会議所でした。ミャンマー版の日本経団連のようなもので、ミャンマーのビジネス界を代表して政府に提言したり、外国の代表団を迎えたりします。私が配属されたのは人材育成部門でした。もともと何か自分でしたいと強く思っていたので、ミャンマーの大学生を対象にした人材トレーニングを自分で企画して商工会議所に提案しました。
しかし、その企画の実現は本当に大変でした。まずミャンマーでは何かが決まったりするのがギリギリで、その企画も1月7日に実施予定だったのですが結局許可が出たのは大晦日。そこから急ピッチで参加者を集めて・・・という感じでした。インターンシップ中にお世話になった2人の日本人に講師になってもらい、日本の経済発展の経緯とミャンマーのこれからの経済発展を比較しながらプログラムは進みました。具体的には、「君たちはこれからどうキャリアを形成していく?」といった内容のレクチャーや、「10年後の自分の理想のキャリアを考えてみて逆算すると今は何をすべき?」といった日本の就活チックなこともしました。
大学に足を運んではじめて知った現地大学生のニーズ
―それからミャンマーの大学生と日本の大学生を繋げようとしたわけですね?
いえ、その企画を実施している時はまだ学生会議のアイディアはありませんでした。企画実施後、講義のお礼にということでミャンマーの参加者たちが各々通っている大学に招いてくれたのです。そこで、ある大学では「君がうちの大学で今年初めての外国人訪問者だよ。」と言われて、とても驚きました。他の大学では、私と同じ国際関係学を専攻している学生に私がアメリカに2年間留学していたことを話すと、とても羨ましがれました。同じようなテーマを勉強しているのに、ミャンマーの大学生には外国人と関わる機会がほとんどない。そこから「日本の友達を連れてきてよ!」という軽い流れで言われるようになりました。
その学生達がとてもパワフルで、その流れから急に大学の学長のところまで引っ張って行かれて(笑) 私から学長に「もし日本人と交流する機会があったらどうですかね?」と提案してみると、即決で「ぜひ!」と答えてもらいました。同時に学長から「なかなかミャンマー人だけはできない。というのも、ミャンマーの大学はまだまだ官僚的で日本の大学のように自治権がなく、大学の上にある教育省からのOKがないと自発的なことはできない。」しかし、「日本人の君ならできるかもね。」とも言われ、すごいワクワクして嬉しかったと同時に、実行する意義を感じました。
一方で、ふと思ったのは、この学生達にとって交流する相手が日本である必要は特にないのかなと。たまたま目の前にいる外国人が日本人だから「日本人を連れてきてほしい。」と言ってくれたけれど、もし私がアメリカ人だったら「アメリカ人を連れてきてほしい。」って言っただろうし、カナダならカナダ、中国なら中国となったかもしれない。ミャンマー人は親日ですが、私たちと同世代は韓国のK-popにもとても興味があります。もし、ここで日本人学生が他国に先駆けて交流することができれば、「日本人と交流したい」と思ってくれる動機が生まれると思いました。「他国に先駆けて一番最初」というところに意義があるなと思ったんです。
―いざやるとなったものの、どのように準備したのですか?
まずは運営を行うメンバー集めです。ミャンマーのインターンから帰国後、どこに行くにもミャンマーの話をしていると、少しずつ賛同してくれる人が増えていきました。ただ、誰でも彼でも運営メンバーとして誘ったわけではなくて、「それぞれが今までやってきた経験や強みを活かせる組織」という目標に基づいて集めました。だからこそ生まれた特徴だと思うんですけど、ポジションごとに明確に仕事を分けて運営していました。例えばずっと市民記者として活動してきたプロ並みのカメラマンがPR広報担当にいたり、企画担当のメンバーは過去にワークショップを企画運営したことがあったりと。ここでも良いご縁のおかげで理想的なメンバー7人が集まりました。
ミャンマー側の運営メンバー集めは、Facebookで告知して、私が実際にミャンマーに行って募集説明会をしました。「とりあえず説明会して面接します!運営したい人は来てください!」というぶっつけ本番でしたが、嬉しいことに募集人数の2倍応募がありました。選考を通過して運営メンバーになってくれた人達も経験豊富で国際会議でのボランティア経験をしたりしていました。
人は集まったので、次は資金集めです。最終的にはクラウドファンディングのREADY FORから約30万円、国際交流基金、立命館大学等から資金をいただくことができました。さらには、在ミャンマー日本大使館から日本とミャンマーの外交樹立60周年記念事業に採択していただきました。資金集めをして、資金が集まったのももちろん良かったのですが、それ以上にたくさんの方々が応援してくださったので「もはや自分達だけのプロジェクトではない。絶対にやり遂げよう。」という自覚が芽生えました。
実は、最後に一番苦労したのは場所の確保です。結果的にミャンマーの最高学府であるヤンゴン大学で開催できたのですが、それが奇跡的なのです。1988年から、民主化の中心となりうる学生の集会を禁止した政策の影響で、つい最近まで大学が封鎖されていました。そのような背景があったので、やはりここでも許可が出たのはギリギリでした。
―いざ本番となってどうでしたか?テーマは「キャリア形成」ということでしたが、ミャンマー側の参加者と日本側の参加者の考えに違いはありましたか?
参加者にはチームで最終報告会の内容を考えてもらったのですが、やはり前提条件の違いに苦労することが多かったようです。例えば「就職観」ですね。日本では、大学にいる間に内定がでるので大学時代の経験が問われるのに対して、ミャンマーの場合、多くの大学生は卒業後一旦失業します。在学中に決まるというシステムがないので一旦大学から放り出されるのです。そこからとりあえず仕事を見つけて少しずつ積み上げていくシステムだから、リーダーシップ経験なんて言っている余裕はなく、まずは仕事経験、英語力、ITスキル、エンジニアスキルといった面を重視しています。
他に日本の参加者から後から聞いた話では、親の決定権の強さにギャップを感じたようです。ミャンマーの参加者達は、わりと具体的な目標を持っているけれど、いざなぜかと聞いてみると「親に言われたから」といった理由で、日本の参加者としてはそのような進路選択に違和感があったようです。
今から振り返ってみると、点と点が繋がっていた。
―IDFCの将来と橋本さん個人の将来はどのようになっていくのでしょう?
イベントの最後に、日本の参加者が帰国する際には、涙を流しながら別れを惜しむ光景が感動的でした。そこで思ったのは、「こういった日本を良く思うミャンマー人、ミャンマーを良く思う日本人を増やして、繋げていきたい。」ということでした。幸いにも、あと1年間大学にいられるので、もう1年はIDFCにフルコミットして今後も続く形で引き継いでいきたいです。それから、今年の日本の参加者は、ミャンマーの現地の空気を吸いながら、ミャンマーの人達と交流できたことをとても喜んでくれたので、その逆で日本での開催もいつか実現したいですね。
卒業後の私の進路はまだ決まっていませんが、やはりここまでミャンマーと関われているのは何かご縁があるのかなと思います。だから卒業後もミャンマーとはこれからも関わっていきたいですね。IDFCでの経験を通して、「人と人の繋がり」をつくっていくことにすごくやりがいを感じました。
学生の内にしかできないことがある。
―いま、同世代の若者に何を伝えたいですか?
これまでの激動の日々を振り返ると、点と点が繋がっていったからここまで来れたのかなと感じます。そして、IDFCが実現できたことで、新興国でも世界中どこに行っても、「学生だからこそできること」があると確信しました。
それは、現地の人と対等な関係を築く。もっと平たく言えば、友達になること。それこそが学生の内にできる貴重な経験だと思うし、そのような経験は、将来また別国の人と関係を持つ時にも基盤になると思います。プロジェクトの運営も日本側の一方的な運営ではなく、ミャンマー側の意見を尊重しながら、対等な関係を築くことを重視しました。日米学生会議から宮沢喜一元内閣総理大臣が輩出されたように、IDFCからもミャンマーの大統領が輩出されるくらい、継続していきたいです。
IDFC HP: http://idfc2014.strikingly.com/
READY FOR : https://readyfor.jp/projects/idfc-mj-2014