「交通事故に巻き込まれたことが、タイに飛び込むきっかけになった」。大学を卒業後、タイのプロフットサルリーグに飛び込み、選手を引退した後も現地でサッカーエージェントやアパレルなど複数の事業を展開。試行錯誤をしながらも、常に「体当たり」の姿勢で挑戦を続けてこられたLaLa Clasico代表の真野氏にお話を伺った。
《プロフィール|真野浩一氏》
1985年9月14日生まれ。宮城県仙台市出身。青山学院大学経済学部を卒業後、タイのフットサルリーグに加入。同リーグを引退後、2011年にLaLa Clasico Co.,Ltdをタイ・バンコクにて設立し、代表取締役に就任。現在、タイでのフットサル選手時代に培った東南アジアの各サッカーチームとのコネクションを生かし、日本人サッカー選手エージェントビジネスを軸に、サッカー・フットサル・ソサイチ(7人制・8人制サッカー)に関連するフットボールコーディネートを行う。その傍ら、メンズファッションセレクトショップLaLa Clasico Terminal21を経営。その他、good morning fc代表、F-ASIA運営実行委員も務める
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目次
アパレル、サッカーエージェント、ブライダルとマルチに事業を展開
―バンコクで展開されている事業について教えて下さい。
タイのサッカーリーグに日本人選手を紹介するサッカーエージェント事業を行ったり、「LaLa Clasico」というアパレルショップの店舗を経営したりしています。
サッカーエージェント事業では「ユーロプラスインターナショナル」という日系のサッカー留学支援企業のタイ支店責任者として活動しています。そこで展開している事業は二つあります。1つ目は、日本でプレーしているサッカー選手や、フットサル選手をタイ国内のプロチームに紹介する事業です。Jリーグや、ヨーロッパでプレ―していた日本人選手を、タイやラオスのサッカーチームに紹介したり、日本人の高校生や大学生がタイでプロデビューするサポートを行ったりしています。
2つ目は、サッカー遠征のコーディネート事業です。日本からタイのチームとの交流試合を目的に来られるお客様に、試合のコーディネートや、タイ観光の手配サービスを提供しています。
(タイのサッカーチームに契約が決まった選手と真野氏)
アパレル事業では、2011年よりに「LaLa Clasico」というメンズファッションセレクトショップを運営しており、Terminal21というショッピングモールに店舗を構えています。主に男性向けの洋服やアクセサリーを販売しており、おしゃれに敏感なバンコクの男性をターゲットにしています。
今後は、これからタイに進出したいけれども、現地のネットワークやノウハウがない企業に対して、進出のコンサルティングや支店の代理運用サービスを提供していきたいと思っています。これまでタイでアパレル事業やサッカーエージェント事業を展開し、試行錯誤を繰り返してきたので、その中で培った知恵をお客様のタイ進出に生かしていきたい。
現在とある会社のブライダル事業のタイ進出をサポートしているのですが、これまでハワイやバリが海外挙式のメインだったのに対し、「タイで挙式する」という新しい選択肢を提供していきたいと思っています。
―バンコクでビジネスを始められたきっかけを教えて下さい。
2008年に日本の大学を卒業してから、フットサル選手になりたいと思いタイに来ました。しかし生活するお金を考えた時に、フットサル選手一本では生活が厳しかった。そこで学生時代からやっていた、洋服をネットで売るビジネスを継続し、タイに来た後も午前中は洋服を売る、午後からフットサルの練習をするという二足のわらじをはいていました。それがタイで始めた最初のビジネスですね。フットサルを引退した後は洋服のビジネスを拡大し、今ではtermial21というショッピングモールに店舗を構えるまでになりました。
(terminal21内の店舗で作業をする真野氏)
学生時代に旅行したタイで、交通事故に巻き込まれて入院。それがタイに飛び込むきっかけになった。
―なぜ大学を卒業後、タイに来ようと思ったのですか?
2006年、大学生3年の時に旅行でタイに来ていました。就職活動前に、人生を考えるきっかけとして行ったタイ旅行でしたが、旅行の最中に交通事故にあってしまいました。事故で大けがを負い、身動きがとれないまま一人でタイの病院に入院している時に、多くのタイ人の優しさに触れました。これが人生を考えるきっかけとなり、タイに住んでみたいと本気で思うようになった。
その後怪我が完治し、日本に帰国してからも「どうやったらタイに住めるんだろう」と考えるようになり、タイに住む手段を調べていました。すると、ちょうどその年にタイでプロフットサルリーグが始まったという情報知り、「これはタイに行くしかない」と思いましたね。交通事故がなかったら、タイにそこまでの魅力を感じかなったかもしれない。大学3年生で就職活動前に人生を考えるきっかけを探していたときだったので、なおさらタイに行きたいと強く思いましたね。
しかし、タイでフットサル選手をやるという目標を持ちながらも、一応日本で就職活動はやっていました。当時は正直、タイでフットサル選手をやることがベストなのか、日本で就職をすることがベストなのかということは分かりませんでしたが、実際に日本で就活を行い、日本での就職は「合わない」とあきらめることができましたね。みんなと同じ服を来て、同じ時間に起きて、同じような仕事をするというのが、自分にとってストレスとなり、面白みがないなと思いました。
―日本でプロフットサルチームに入るという選択肢はなかったのですか?
日本にはTOPリーグに12チームほどありますが、ほとんどみんな他の仕事しながらフットサルをしているので、純粋なプロといえるのは1チームしかないですね。2足のワラジをはいて、フットサルと別の仕事をやっていくことにあまり魅力を感じなかったし、正直日本で活躍できるくらいの実力がないとも感じました。
―大学を卒業し、新卒でタイに飛び込んだ時の周りの反応はどうでしたか?
親の反応は「え?」という感じで、最初は理解を得られませんでした。親としては、息子を大学にまで行かせたので、そのまま大手企業に勤めるというような安定した道を歩んでほしかったと思う。そんなレールを蹴ってまでタイに渡ったので、「どうやったら親に、この決断を心から良かったと思ってもらえるか」ということを考えていましたね。これまで小学校から大学までは親に作ってもらった道でしたが、初めて「この道に進みたい」と半ば無理やり決断した道でした。
「一つでも多くの選択肢を持つ」ための行動をすべき
(真野氏が率いるフットサルチーム「チームララクラシコ」)
―真野さんの今後の展望を教えて下さい。
サッカーエージェントとしてのビジョンは、「サッカー選手の新たなキャリアパスを提供する」ことですね。日本でJリーガーになることができなかった選手が、タイでプロデビューして経験を積むサポートを行います。そして、その後再びJリーグや、ユーロッパ等の海外でプロデビューするというような、ステップアップできる道を選手に示してあげることを目指していますね。
日本でJリーグ選手を目指すプレーヤーは年間何千人といますが、実際Jリーグにデビューできるのはそのうちの数百人しかいません。逆にデビューができなかった選手のうち、半分以上は引退するかアマチュアリーグでプレーするという選択肢しかありません。しかし、アマチュアリーグからJリーグに上がれる選手はほとんどいない一方で、一歩日本を出ると、東南アジアでは活躍できる可能性がある。日本のサッカーのレベルは高く、日本では力が及ばなかったとしても、東南アジアでは十分に活躍できる可能性があると思います。日本のJリーグでプレーするよりも、報酬がもらえる可能性さえありますね。
日本から東南アジアでプロデビューするという流れができると、選手にとっても夢を追いかけ続けられるし、タイのサッカーリーグにも良い選手を紹介できる。さらに、エージェントとしてもお金をいただくことができるので、みんながWin-Winとなれると思います。今後このような流れをもっと一般的にしていきたいですね。
―日本の若者に伝えたいことはありますか?
常に一つでも多くの選択肢を持つことが大切だと思いますね。複数の選択肢の中から、自分の意思で自分の生き方を選択することが大切だと思いますし、そうすると後悔がないと思います。常に選択肢を増やしていける行動を起こすために、迷う前にまずチャレンジする、できるだけ多くの失敗をするといったことが重要。そして、体当たりしてチャレンジしたもの中から、最善のものを選び取れるといいですね。
また、自分で道を閉ざさないこととも大切です。目の前にある機会にはまずチャレンジする。やってみてダメだったら違うことをやるといったスタンスが大切だと思う。自分も学生時代に世界を旅しながら、一番良いと思ったタイという国を選びました。このように、様々な出来事に対してオープンマインドとなり、選択肢を増やしながら、自分にとってベストな選択をすることで自分が納得する生き方ができると思っています。
(文・インタビュアー:長屋智揮 校正:杉江美祥)
《真野氏関連情報》
■LaLa Clasicoウェブサイト
https://www.facebook.com/LaLaClasico
■ブログ「アジアへの挑戦」
http://mano.asia
Interviewed in Aug 2014