タイ・バンコクで日本人の駐在員向けに賃貸物件の仲介を行う株式会社ディアライフ。今年で設立6年目になりバンコクで勢いのある会社の一つだ。そのディアライフに、日本とタイでサッカー選手を経験した後にセールスとして働いている異色なキャリアをもつ伊藤氏がいる。これまでのキャリア、サッカー選手を引退してもタイで働く理由を伺った。
《プロフィール|伊藤琢也》
元サッカー選手。2児の父。日本の企業チームやJリーグで活躍した後、タイのサッカーチームからオファーされ家族でタイへ。1年間プレーをして、サッカーコーチを経験し株式会社ディアライフで不動産営業マンとしてセカンドキャリアを歩むことに。ディアライフでは営業件サッカースクールのアドバイザーとして活躍中。
サッカー選手からビジネスマンへの道
ーサッカー選手から現職に就くまでのお話を簡単に教えていただけますでしょうか。
アマチュアの企業チームでずっとサッカーをプレーしていました。30歳のときに9歳下の後輩にレギュラーをとられ引退を考えていましたが、J2のファジアーノ岡山からオファーされ、プロサッカー選手になりました。36歳になって今度は真剣に引退を考えていたのですが、沖縄とタイのチームからオファーをもらい、仕事で海外で働ける機会はめったにないと思い、タイのサッカーチームで挑戦してみることにしたのです。
1年間タイでサッカー選手としてプレーした後、サッカーチームのコーチをしているときにディアライフに声をかけてもらって現在にいたります。
ーディアライフでの仕事内容について教えていただけないでしょうか。
駐在している方へ不動産の営業をしております。また、サッカースクール事業もしているのでそのコーチも務めております。営業は日本語とタイ語を使っていますが、弊社にタイ人のスタッフが70人近くおり、社内でもタイ語も使うこともあります。
タイ語は独学で勉強しました。選手時代、片道2時間かけて練習場まで行っていたのですが、行き先を読めないとバスなどの交通機関にスムーズに乗れないので、タイ語を勉強せざるをえなかったのです。
ーサッカー選手を引退し、セカンドキャリアを歩もうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
タイで所属していたチームのスポンサーの契約がきれてしまい、タイに住みつづけるためには家族の分ふくめ自分で何度もビザを更新する必要がありました。そうなるとオーバーステイをしてしまうこともあり、ものすごく大変でした。
気持ちとしてはまだいけると思っていたし、現役としてプレーを続けたいという願望もありました。しかし、家族のことを考え妻と相談した結果、年齢的にもセカンドキャリアを歩むことを決めたのです。
ーサッカー選手として長年キャリアを歩んできて、現在は営業をされています。ギャップなどはありませんでしたか。
今までやってきたことと違いすぎて、逆に面白く感じます。選手の時は自分の考えや想いを周りの人から聞かれる立場だったので人見知りな僕でも大丈夫でしたが、営業はお客様の希望やニーズを引き出さないといけない。慣れないことなので最初は苦労しましたが、妻が自らコミュニティにも飛び込んでいくぐらい人と話すことが好きで、コミュニケーション力に長けているので、彼女からコミュニケーションの取り方を学んで仕事でも活かしています。
〈タイで子供たちにサッカーを指導する伊藤氏〉
タイで失ったものをタイで取り返すために
ー家族でタイに引っ越すと大きな決断を下したとき、迷いなどはなかったのでしょうか。
家族と一緒に挑戦するというスタンスでやっているので、あまり迷いはなかったですね。オファーをいただいたタイのチームの練習に参加し、プロ契約の条件をだしてもらった時に「家族を養うため、給料や家を用意していただかないと契約は無理だ」ということを伝えて日本に帰国しました。すると、「全部用意するからご家族を連れてぜひタイに来てください」と電話をもらい、タイに行くことを決意しました。しかし、現地についてみてびっくり。条件は最初と変わっていませんでした。結局、家も自分で探すハメになり、練習場から2時間離れていたところに住むしかありませんでした。
今だから笑える話ではあるのですが、当時は頑張ってたら絶対に誰かが見ててくれると思っていたので、我慢して活躍し、チームを上に引き上げられるように必死に頑張っていました。
ータイでサッカー選手を引退した後、伊藤さんのようにビジネスマンとして働く方は多いのでしょうか。
一緒にタイにきたチームメイトがまだプレイヤーとして活躍しているのですが、サッカー選手を辞めてからも滞在されている方は僕以外に聞いたことがないです。
僕はタイで失ってしまったお金のほうが多いんですよね。給料未払いがあったり、ビザの件で家族に迷惑をおかけたり、普通に駐在してお仕事されている方のような暮らしは家族にさせてあげられないのかもしれませんが、人並みの生活はさせてあげたいと思っています。
家族に迷惑をかけた分、失ったものはタイで取り返したいという想いがあります。また、子供たちが4年生と6年生なのですが、日本を外から見て育つ機会はなかなかないので、貴重だと思っています。
上手くいかなかったらアプローチを変えてみろ
ータイで働いていて1番大変だと思うことはなんでしょうか。
人の気質です。仕事をお願いするときに、日本人は自分の期待しているところまでやってもらえると思いがちなところがあります。でも、タイ人の方にはお願いしたことに対して、ここまでしかできないのかなと思うことが多いです。そういうときは見方を変えて、やってもらったことに対して「ここまでしかできないのか」ではなく「ここまでやってくれた」と思うようにしています。
特に人の気質が日本とタイで違うと感じたのはサッカー選手のときです。ビザがオーバーステイになりそうだったので、更新手続きをスッタフにお願いしていました。ずっと「安心しろ、やっているから」と言われていたのですが、ビザランに行く3日前にそのスタッフが突然いなくなり、結局ビザの更新ができずオーバーステイすることになりました。僕だけではなく、まわりの日本人サッカー選手からも似たような話を聞きます。
ー異文化や困難を乗り換えるときに心がけていることはありますでしょうか。
アプローチを変えてみることですね。これはサッカー選手をしているときに経験したことがきっかけで、心がけるようになりました。
たとえば、一本のパスが自分が思っている以上に強いとき。それは動き出しの関係でチームメイトが僕のレベルについてこれてないからなんです。だから、ついてこいとリードする一方、レベルの視点を下げないと解決策が見えてこないんですね。それは仕事でも当てはまるんじゃないかと思います。上手くいかなかったらアプローチを変えてみる。これは仕事をする上でも心がけていますね。
また、アマチュアからプロになった時にすごい感じたことがあって、それは環境に適用することは大事なのですが、自分の芯をしっかりもつことも大事だということです。プレイヤーはチームにとって一人ひとり商品なのですが、チームの目標を達成させるために自分を殺さないといけさない時があります。その時に、自分じゃなくていいじゃんと思ってしまうことがあるのですが、それだと良いプレイヤーにはなれません。環境に適用しつつ自分の芯は忘れてはいけないのです。この調和と主張の使いわけ方はサッカー選手の時に培ったもので、今も心がけていることです。
〈ファジアーノ岡山時代。子供たちの記憶に残るまでサッカーの試合は手をつないで入場していた〉
元Jリーガーという武器で挑戦していく
ーこれから成し遂げたいことを教えていただけないでしょうか。
一人の人間として大きくなりたいと思っていて、与えられたことに対して結果を残していればそれは達成できるものなのかなと思います。
最初は元Jリーガーで今はどうなの?って思われるのが嫌で、この肩書をあまり良くは思っていなかったのですが、今は視点を変えてネガティブに考えるのではなくこれが武器になっていると思ってやっています。
仕事面では元Jリーガーという肩書を活かしてもっともっといろんな方に関わっていきたいし、会社が成長するように頑張っていきたいと思っています。
また、サッカーの指導で関わってきた子がタイでボールを蹴れる環境は残しておきたいと思っているのですが、日本人の子供たちが練習していたサッカー場がなくなってしまったんですよ。なので、大きな夢ではありますがふらっと立ち寄ってボールを蹴れる環境をいつかタイに作りたいです。
ー東南アジアで働きたいと考えている人にどうアドバイスしますか。
日本よりも、タイを始め東南アジアの方が自分がやりたいことを実現しやすいと思っています。なので、自分が何をやりたいのかということを明確にしたイメージをもって東南アジアにくる方がいいです。なんとなく来てみようという考えだと成功はしにくいと思います。
編集後記
サッカーのために、家族のために、どんな波乱万丈なことがあっても乗り越えてきた伊藤氏の話を聞いてると何度も鳥肌がたった。個人的にスポーツが大好きだが、アセナビを通して元プロサッカー選手の話を聞く機会はなかなかないので、とても貴重な経験となった。バンコクにいった際はぜひ伊藤氏のプレー姿を見たい。
株式会社ディアライフのHPはこちらから