Selamat siang! Apa kabar?
(こんにちは!お元気ですか?)
連載の第二弾です!前回の話、覚えていらっしゃるでしょうか?
Kartiniはジャワ貴族の家に古くから伝わる閉居に約6年間縛られましたが、1898年5月2日、オランダ政庁側からの懇請によって解かれましたね。
(復習したい方はコチラ!→)インドネシア女性解放運動の先駆者 Ibu Kartini 第1弾
今回はIbu Kartini 第2弾ということで、Kartiniが閉居から解放された後、具体的にどのような活動をしていったのかお伝えします。
その後、彼女はどのような社会活動に勤しむのでしょうか。
村の生活を調べる
閉居から解放された後は、Kartini3姉妹は彼女たちが生まれ育ったジュパラ付近であればどこへでも好きな所へ行って、住民社会の生活を調査することが許されました。
とくに私は村や部落の人々の間で共に生活してみたいと、心から望んでいます。村の生活を知れば知るほど私にとって住民が親しい大切な存在になるのです。たとえしばらくの間でも共に生活してこそ、住民の心をはじめて理解できるのではないでしょうか。ですから私達も、出来るだけ住民と親しく接する機会を作るようにしています。私達だけで外出するときには、いつも部落の何軒かの家に立ち寄ることにしています。はじめ、部落の人々は不思議そうな顔で見ていましたが、今では慣れてきました。
(アベンダノン氏宛て)
Kartiniたちは、村の住民と触れ合うことだけではなく、高官の令夫人方たちとも話し合うことを忘れませんでした。「こうして3姉妹は社会を単に外側からだけでなく、生活の悲しみや喜びを通して、底辺から頂上まで知っていった」(シティスマンダリ, 82)のです。
この調査に基づいて、Kartiniはジャワ女性を無知の状態から救い出し、男性より低くされている地位を向上させるためにはどうすればいいのか、追求しはじめるのです。
木彫産業を盛んにする
Kartiniが生まれ育ったジュパラは、旧くから木彫技術によって知られていました。
(参照: http://www.emp.pdx.edu/htliono/cj.html)
特に、ブラカングヌン(山の裏)という名の村で盛んで、そこでは親から子へ代々技術を習い伝えてきました。原始的な道具で仕事をしていたことも特徴です。
Kartini3姉妹は、彼らが作業している様子を眺めるのが大好きで、よく通っていました。また、この細密な仕事からどのくらいの収入を得ているのか調べたりもしました。すると、彼らの熟練した技術と作品の値打ちが、収入と見合っていないことが分かったのです。そこでKartiniは考えました。
『どうしたら彼等の生活をその仕事によって保証してやれるだろうか』(シティスマンダリ, 91)
そう考えているうちにチャンスが巡ってきました!
伝統工芸品を大都市へ
デン・ハーグ(オランダの南西部に位置する町)の全国婦人技芸展覧会は、衰えかけていたオランダ・インドネシアの手工芸を再興させる目的で「東西協会」という組合を設立したのです。
そこで、Kartiniは東西協会と良い関係を築きました。そして東西協会の斡旋で、職人達の作った品物がスマランやバタヴィア(現在のジャカルタ)へ送られるようにしました。購買者の範囲がかなり広まった木彫工芸によって、職人達を含めKartini自身もかなりの代金を受け取ることに成功しました。このことによって、職人達はより一層心をこめて働くようになったのです。
それだけではなく、創造性の豊かだったKartini3姉妹は新たなデザインを考え、職人達に作らせました。それは影絵(ワヤン)です。この新しいデザインで作られた作品は大好評!今日に至るまでKartini3姉妹は、ジュパラの木彫を復活させ魂を吹き込んだ功労者、として認められています。
伝統的な影絵芝居であるワヤン
(参照:https://nusanthara.wordpress.com/)
この後の時代、オランダ政庁による「倫理政策」(参考:倫理政策(りんりせいさく)とは - コトバンク)が行われたり、妹の結婚やKartiniオランダへの留学の挫折など、さまざまな出来事が起こります。しかしながら、上で既にお話した住民への聞き取り調査と木彫産業の2つの活動は、確実にKartini自身のでみでなくジャワ社会にも大きな影響を与えていました。
結婚。そして…
1903年6月、Kartiniはレンバン(西ジャワの町)の知事と結婚します。しかしその結婚に対し、彼女は2つの条件を差し出します。
1つ目は、結婚式では膝行と新郎の足を拝する過程は行わないこと。(新郎の足を拝するということは、『あなたに服従します』ということを表し、Kartiniの志に反していました)
2つ目は、夫とジャワ語で話すときは、普通のジャワ語を使うことでした。(ジャワ語には5段階の敬語があり、夫に敬語を使うことで妻としての自分の地位を下げることになるからです)
この条件を見ると、男性との対等な関係を築きたい、という意思が伝わりますよね。
1904年9月13日、Kartiniは第一子となる長男を出産します。ですが、産褥熱によって4日後の9月17日に、25歳の若さで亡くなってしまいます。
私の腕の中で、妻は穏やかにそっと息を引き取りました。亡くなる五分前まで気は確かで、最後の最後の一瞬まで意識がありました。すべての考え、すべての仕事において、彼女は「愛の象徴」といえる人でした。その見識は広く、女性の中で彼女に並ぶ者はいませんでした。(中略)
これは夫が、アベンダノン氏へ送った手紙です。
残念ながら、Kartiniの活動がインドネシア国民に知り渡り称賛されるようになるのは、彼女が亡くなった後のことです。それについては次回をお楽しみに。
Terima kasih banyak dan selamat siang.
(ありがとうございます!)