Selamat siang semua!
Apa kabar?
(みなさんこんにちは!お元気ですか?)
突然ですが、質問です。
Q. 日本で女性解放運動の先駆者として活躍したのは、誰でしょう?
答えは、平塚らいてうさんです。
平塚らいてうさんは大正時代から昭和時代、そして戦争の起きた激動の時代を生きた女性です。婦人参政権や女性の権利獲得に奮闘し、彼女の活躍のおかげで現在のように女性が社会で活躍できるようになったのですが、ほぼ同時期にインドネシアで女性解放のために奮闘した女性がいるんです!Ibu Kartini(Ibu: 大人の女性への敬称)といいます。今回はこの方の人生を追いながら、3回に分けて連載します。
①女性解放の活動を始めた経緯
②具体的な活動内容
③若くして亡くなった後、彼女の遺志が現在までどのように受け継がれているのか
今回は第1弾として、①女性解放の活動を始めた経緯についてです。
目次
Ibu Kartiniの育った環境
Photo by kompasiana.com
本名はRaden Ajeng Kartini。
Raden=(ジャワ語)ジャワ王族の家系であることを示す肩書き
Ajeng=(ジャワ語)未婚女性であることを示す
名前から分かる通り、Ibu Kartiniはジャワ王族の娘なのです。ジャワの中でも、彼女が生まれたのはJepara(ジュパラ)という地域です。
Photo by promojateng-pemprovjateng.com
中部ジャワ、ジャワ北岸に位置し、海外(特にオランダ)との交易が非常に盛んだった地域です。
彼女の父、Raden Mas Adipati Ario Sosroningrat氏はこのジュパラ県の知事を務めていて、オランダ植民地政府側との関係が強かった人物です。
母親について。彼女には生みの母と育ての母がいます。しかし生みの母は離婚したのではなく、実は第2夫人だったのです。そして育ての母が第1夫人。つまり、生みの母と育ての母とでは家庭内での待遇が異なり、お手伝いさんのような雑用をさせられ、直接Kartiniのお世話をすることはできなかったのです。
このような両親の間に1879年4月21日に11人兄弟の長女として生まれました。
イスラームの教えによって教育が受けられない!?
先程もお伝えしたとおり、父親はオランダ植民地政府とも仲が良く、ヨーロッパ文明に対して「開明的」でありました。
しかし当時インドネシアでは既にイスラーム教が浸透し、コーランについて間違った解釈が行われたために「男性優位」の社会が出来上がっていました。それによって女子は学校へ行って勉強することが禁じられていたのです。
また、
『女の子は将来どうせ結婚して母親になるのだから、家のことができれば十分』
という考えがあったことも事実です。
このような社会の中でも、知事を務め「開明的」であった父親のもとに生まれたことは彼女にとって幸運なことでした。なぜなら、「知事の娘」ということで特別にオランダ人が通う小学校へ通うことができたからです!
当然学校中見渡しても、ジャワ人は彼女一人でした。しかも授業はオランダ語で行われます。そのような環境の中でも勉強が大好きなKartiniは常にクラストップの成績を取る優等生でした。
厳しいジャワの貴族慣習
インドネシアでは13世紀末にイスラム教が浸透しましたが、それ以前からのそれぞれの地域の伝統・文化は残されていました。つまり、イスラム教を信仰しながらも、ジャワの古くからのしきたりは守られていたのです。
そうするとどのようなことがKartini自身に起こったかというと、 婚前閉居というジャワの貴族慣習に従わなければいけませんでした。
閉居とは、初潮を迎えたジャワ貴族家庭に生まれた女子がその後結婚するまで家に閉じ込められる慣習です。
Kartiniの場合13歳の時に小学校を卒業し、彼女自身は中学校への進学を熱望しましたが、貴族階層のステータスを維持しなければいけなかった父親はKartiniを部屋に閉じ込めました。
Photo by “Gelap-Terang Hidup Kartini”, P.17
この写真は、Kartiniが閉じ込められていた部屋の写真です。
閉居中のKartiniが考えたこと
閉居中、彼女は何をしていたと思いますか?
1892年~1898年5月の約6年間閉じ込められている間、当時のオランダ領東インド政庁教育・宗教産業局長であったアベンダノン氏と文通をしていました。彼女は自分の境遇、小学校で学んできたヨーロッパの文化とジャワの封建的慣習の比較、一夫多妻制、そして女性への強制結婚など、彼女を取り巻く様々な環境から、ジャワ女性への教育の必要性を手紙を通して訴え始めるのです。
学校の扉は背後でバタンと音を立てて閉まり、両親の家が温かく彼女を迎え入れました・・・家は大きく、庭も広々としています。しかし、邸を取り巻く高く、分厚い石塀に囲まれた四角い空間が、それ以降、彼女の全世界となったのです。
鳥籠がどんなに美しく、立派なものであっても、その中に閉じ込められた鳥にとっては、鳥籠に変わりわありません。(アベンダノン氏宛ての手紙より)
『封建的慣習がこのように長く持ちこたえているのはなぜなのか。それは女性がいつまでも黙って運命を受け入れてきたから。それではなぜ反抗しなかったのか?それは夫から離婚されることを恐れていたから。
離婚されると何が困るのか?それまで生計を夫に頼ってきた彼女たちは、離婚すると独りになり生活に困ってしまう。その上、今まで働いたこともなければ十分な教育を受けてきたこともない。
故に辛い状況を受け入れていくしかないのである。
彼女たちが自立できないのは無知だから。
逆に言えば、女性たちに十分な教育を受けさせれば、自立することができる。』
Kartiniが行き着いた2つの解決方法
1つ目は、女性が無知な状態から抜け出すために教育を受けさせること。しかも、男性と同じレベルまで引き上げるために、初等教育だけではなく高等教育も受けさせる。そうすれば、自分の仕事を持つことができ、自立した生計を立てることができる。
2つ目は、男性に、女性に対する礼儀を教え、女性を一段低い生き物であるかのように扱わないように道徳教育を与えること。
最終的に彼女は「女性への教育の大切さ」にたどり着くのです。
私は女性が社会に大きな影響を与えうると心底から確信していますので、いずれ教師になって、この地の上級官僚の子女を教育するのが一番の望みです。その子たちを導き、その人格を形成し、若い頭脳を開花させたい!学んだよき事全てを後世に伝えていくべき未来の女性を育てたいのです!女性によい教育を授ければ、私たちの社会は将来必ずや幸せになるはずです。(N=ファン=コル夫人宛ての手紙より)
1898年5月2日、彼女は6年間の閉居から解放されました。これはKartiniの結婚が決まったわけではありません。1985年に彼女が書いた『コジャ人社会の結婚』が1898年の王研紀要に “論稿”として掲載され、それを高く評価した知識人たちからの希望によって、解かれたのです。
それは私達にとって大きな勝利でした。オランダ人の友人たちは歓呼の声をあげて迎えてくれました。そして私達はといえば、幸せでいっぱいでした!でも、私は満足してはいません。満足からはまだ程遠いのです。もっともっと前進したい!自由がほしい。他人に依存せず、結婚を強いられることもないように、自立したいのです。(宛名不明)
※私達: Kartiniは、閉居中の最後2年間は2人の妹と共に閉じ込められています。閉居からの解放は3人同時に行われました。
この出来事こそ、Kartiniという一ジャワ女性の知性がジャワの貴族慣習に勝った瞬間だったのです!
閉居から解放されたKartiniは、2人の妹たちと共に、自分たち自身の知識の開拓を進めながらも、女性解放に向けて様々な活動を起こし始めます。
さて、どのような活動を始めるのでしょうか?
それは次回のお楽しみに!
Photo by https://sweetrabbit.wordpress.com/2008/04/21/hari-kartini-21-april/
Terima kasih dan selamat siang.
(どうもありがとうございました)
~日本語文献~
角銅ふみ、「インドネシアにおける女性解放運動」(卒業論文)、神田外語大学、2013年
シティスマンダリ・スロト、『民族意識の母 カルティニ伝』、井村文化事業者、1982年
~インドネシア語文献~
Leila S.Chudori他、 “Gelap-Terang Hidup Kartini”, TEMPO, 2013