Selamat siang! Apa kabar?
(こんにちは!お元気ですか?)
第1弾ではKartiniが女性教育の大切さに気づいた過程を、
第2弾では木版産業に勤しみ、結婚、そして亡くなるまでをお伝えしました。
今回はIbu Kartini 第3弾ということで、Ibu Kartiniが亡くなって以降、彼女の遺志がどのように受け継がれているのか、お伝えしようと思います。
アベンダノン氏が遺志を継いで行なったこと
1904年にカルティニが亡くなった後、アベンダノン氏はそれまでカルティニから受け取った手紙を一冊の本にまとめる作業にとりかかります。
しかしながら、倫理政策は西洋教育によってジャワ女性を自立させようとしていました。そのため、『西洋教育を受けながらも、最終的にはジャワの古くからの慣習〈閉居)に従わなければならなかった』というカルティニ像が出来上がってしまうと、倫理政策の失敗を認めてしまうことになります。そこで、手紙の中で不都合な部分は勝手に削り、『一夫多妻制や強制結婚をはじめとする当時のジャワ社会の男女不平等を世界に訴え活動するインドネシア女性、カルティニ』というように描き、 “Door Duisternis Tot Licht(暗闇を越えて)” を出版しました。
この本の出版は成功し、アベンダノン氏は、この本の印税の全てを、カルティニの生前の夢であった「カルティニ学校」建設のために充てます。1913年にジョンブラン(現在のスマラン南郊部)に最初のカルティニ学校が建てられたのを皮切りに、以降複数の都市にもカルティニ学校が建てられていきました。この学校が建てられたことは、ジャワ女性たちのい社会進出の第一歩となり、現在でもカルティニは「インドネシアの女性解放運動の先駆者」と評されています。
インドネシア民族主義運動のはじまり
それまでオランダ植民地政府によってひどい搾取が行なわれ、ジャワ住民たちへの初等教育の機会や産業が制限されていました。その結果、ジャワ人の能力が衰えてきたしまったのです。このことを反省したオランダ側は、倫理政策を開始します。これは、1901年から1927年頃までインドネシアで採用した新しい種類の植民政策で、インドネシアの経済復興を目指すために始められました。この倫理政策によって、インドネシア現地住民に初等教育の機会が与えられ、親オランダ的な現地住民のエリートたちは専門教育も受けられるようになったのです。その中にはオランダ本国へ留学する若者たちも出てきました。
西洋からの学問や文化を吸収したインドネシアの若者たちは、「教育によってジャワ人の地位を高めよう」と考え、1908年に医学生を中心にブディ・ウトモを結成しました。ジャワ最初の民主主義団体で、ここからインドネシアの民族主義運動が始まるのです。
女性たちが動き出す
この社会の動きに乗じて、カルティニの遺志を継いだ3人の妹、カルディナ、ルクミニ、スマトリを中心に多くの女性が女子教育の普及のために奮闘し始めます。また、カルティニの弟子たちと共にアベンダノン氏によって建てられた「カルティニ学校」の拡大に務めます。
私達姉妹は自然の成り行きとして、亡くなった姉の闘いを引き継いでいきました。その熱意は以前から私達の血の中に潜んでいたものです。私達は特に、姉が以前にしていたように、常に若者たちのグループと連絡を取り、彼等が集い、一致団結し、共に民族と女性の地位向上のために力強く闘うように促しました。その間にも姉が言っていたように、民族決起を目指す動きは徐々に盛り上がってきていたのです。既にあちらこちらでナショナリズムの火の手が上がっていました。私達はその火が勢いを増すように努力しました。(中略)
姉カルティニは民族の地位向上運動のすべてにおいて先駆者でした。
(1964年5月)
※今回参考文献として利用した本の著者が、実際に姉妹たちにインタビューして聞き取った文章と、その時の年号です。
カルティニの日制定
1964年、当時インドネシア大統領であったスカルノは、カルティニの誕生日4月21日を「カルティニの日」と制定し、同年12月22日には彼女を「国家独立英雄」に認定しました。そしてカルティニの功績を称える歌も作られました。毎年4月21日には、女性たちはインドネシアの伝統衣装であるクバヤを着て、「カルティニの日」を祝うのです。
以上、カルティニが亡くなった後の動きでした!
いかに、カルティニの意思と遺志がオランダ植民地政府とジャワ社会を動かしたのか、感じていただけたでしょうか?もしこの時代にカルティニが生まれていなければ、もしカルティニがジャワの貴族家庭に生まれていなければ、インドネシアで女性が活躍できる日はまだまだ来なかったでしょう。また、第5代メガワティ大統領という女性大統領も生まれなかったでしょう。
現代でもイスラーム原理主義によって女性たちの活躍が阻まれていることは事実ですが、女性たちの活躍が社会を良い方向へ動かすことが出来るのも事実。このことを証明してくれたのはIbu Kartiniなのではないか、と私自身感じています。
Terima kasih dan selamat siang.
(どうもありがとうございました。)
*もっともっとインドネシアについて知りたい方へ。
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画像の引用元:Kampoeng Salatiga _ Cinta Sejarah, Cinta Seni Budaya, Cinta kota