17年間ミャンマーを走り続けて見えてきたもの J-SAT代表 西垣充氏

 

17年間ミャンマーに根を張り、様々な事業を手がける西垣氏。日系企業の進出支援、企業へのミャンマー人材紹介、メディア取材のコーディネート、視覚障害者によるマッサージ店の経営等を通じて、幅広くミャンマーの発展に寄与している。ミャンマー関連のセミナーに登壇することも数多く、ミャンマーを最も知る日本人の1人と言っても過言ではない。「求められている限りミャンマーで働き続ける」と語る西垣氏のミャンマーに対する想いを伺った。

 

「ミャンマーを変えたいと思った」

ーミャンマーに来られたキッカケが「旅」だったと伺ったのですが、そこで感じたものって何ですか?

学生時代に就職決めてから、東南アジアを旅をしていて。意識的に日本人に会っていたんだけど、ベトナムで起業している人に出会ったことがありました。当時、1994年はベトナムがドイモイ政策でちょうど活気づいていた時だったのですが、その方に「ベトナムで何かするならもう遅い。ミャンマーだったらほとんど日本人いないはずだから面白いよ」と言われたんですよ。

それまで、ミャンマーの場所も知らなければ、よく聞く『ビルマの竪琴』が何を意味しているかさえも知りませんでした。無知識でミャンマーに来てみたら、本当に何もない。タイから飛行機1時間行くと「こんなに変わるの!?」と驚いたのを覚えています。

それと、日本とミャンマーがこんなに繋がりがあることを初めて知りました。ミャンマー人は日本のことを良く知っていて、友好的なのにこっちは何も知りません。

ミャンマー人と深く関わって、勉強もたくさんして。友人の家に呼ばれて、メイドさんの扱いに衝撃を受けたり、案外簡単に人が死んでいくようなミャンマーの現状を見る中で、感覚的に『自分が何かやらなあかん』って思いました。起業して金儲けしようっていうよりも、ミャンマーを変えたいと思ったわけなのです。

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ー国を変えたいって思って途上国に来る方は、NPO,NGO系の方が多いですよね。そこであえてビジネスを選択した理由ってなんですか?

NGOでもなんでも良かったけど、今まで自分が育った環境を活かしたかったんです。僕は就活の面接で「何をやりたい?」って聞かれた時に、僕は「コンサルで、荒んでいる商店街を直したい」って言ったことがあります。

僕がやりたかったのは、本当に困っている部分をどうにかすること。寄付に頼らず、継続的にミャンマーを変えるための事業をしていくためには、ビジネスという手法を使うのが一番だと思って。実際、ドナーを見ながらだと事業制約があり、限界があるとも感じていましたね。

 

ー20年前に来た時のヤンゴンの様子を教えてください。今より何もないような状態だったんですか?

ないですね。レストランは数少なかったし、ホテルもほとんどありませんでした。冷蔵庫は一応あったけど全然広まってなかったから、氷とバケツをレストランに持っていって、お客の前でビールを冷やしていた頃もあります。

20年前と比べて一番変わったのは、物が増えたこと。特に、インターネットの力で簡単に情報共有できるようになったのはスゴイですよ。会社のホームページを始めた2000年あたりは、メールを送るのにも従量制で課金されていましたからね。検閲が厳しくて、止まったりもしていましたよ。

 

ー情報統制されてる中で、情報を売る側の立場のお仕事って大変そうですね。

ミャンマーは、報道関係の人が自由に出入りできなかったから、情報発信が乏しい部分がある上に、偏ってしまう部分がありました。ミャンマーの街の感じはずっと変わらないのに、日本ではどうしても「危ない国」というイメージがありますよね。

だから、うちのホームページ(ヤンゴンナウ)では「ミャンマーは普通の国ですよ」といつも強調して、リアルな情報を発信しようとしています。ただ、その検閲っていうのがあったから、政府的に不適切な表現は省いて発信していて。

実際、ミャンマーに来てみてハマる人はとても多い印象です。昔から、バックパッカーの好きな国ランキングではミャンマーがベスト3に入っていましたからね。お客さんでも、『一度来て印象が良かったからまた来た』っていうリピート客が多いです。

去年、タイの盲人マッサージ協会の方がミャンマーに来た時、「ミャンマーは良い国だ」って泣いてましたもん。隣国タイでも、イメージとリアルではそれぐらいのギャップがあります。本当に行ってみないと分からないことだらけ。

ネットの情報で行った気になるんじゃなくて、自分で見て、どう感じて、自分で判断するかが一番大切です人によって感じ方が違いますからね。

 nishigaki_5(取材コーディネート風景)

良い流れを継続していくこと。

ー17年前にミャンマーで起業してからの話を聞かせてください。最初の頃は会社がつぶれるかつぶれないかの所で、長い間コツコツやってこられたとお聞きしました。今(取材当時は2013年でした)「ミャンマーが熱い」と言われるように“流れ”が来ていますが、それについては日頃からどのように考えていますか?

人生と似ているかもしれないけど、会社の流れも良かったり悪かったりあって、そこを上手く掴んでいくかが大事です。でも、流れだけでは会社はやっていけなくて、流れ+αが無いとダメ。起業しても10社に1社しか残らないから、人と同じことをやっても上手くいきません。人間の出来ることなんてたかが知れているから、自分の強みを分析して、その強みを活かすことに集中することが大事ですね。

流れについては、正直不思議なところもあって、ダメな時はいくらやってもダメ。不可抗力でトラブった時に出てきた悪い流れをいかに短くするかっていうのは、スタッフにも強く言っています。

例えば、旅行のお客さんがロストバゲッジすることがあります。宝くじが当たるぐらいの確率なのに、そんな人に限って次々とホテルの予約ができないとか、車が来ないとか、トラブルが立て続きに起こってしまうんです。逆に流れが来てる時は、その流れをいかに持続するかっていうのが一番大切だと思っていて。

失敗する法則はあるけど、成功する法則はない。成功する法則は何かっていうと、失敗しないように流れを読んで、自分が何をすればいいかを常に考える。なぜそれをやってきたのかを深く考えることも大事。それって会社経営だけではなくて、人生もそうだと思うんですけどね。

 

ー実際、いま流れは来てますか?

ようやく滑走が終わって、離陸し始めたところ。今年が本当に重要で、何に注力していくかっていうのを決めていて。今までは助走だけだから、やろうと思えばなんでもできます。問い合わせや、『これやりませんか?』という声がそこら中からかかってくるので、やはり注目度は高いなと感じています。でも、そんなの長くは続かないですからね。

 

ーそれは20年間走ってきた成果ですね。

そうですね。よくいう「続けることは大事」という言葉は、めちゃくちゃ実感しています。

結局ミャンマーに来ている日本人も何人か帰国したり、また戻ってくる人もいるけどちょっと違いますよね。話すことに温度差ができてしまっていて。続けるのが難しいんだけど、続けるためには失敗をしない。失敗しないためにはリスクヘッジをいっぱいかけています。

僕らは会社員とは違うんで、キャッシュフロ一が一回止まったら終わりだから、どの事業がつぶれてもキャッシュフローが続くようにしないとダメですね。ようやく今、導入期から成長期に入る所で、どの分野に力を入れていくのか見極めているところ。いかにこの長い成長期を保てる事業を選び出して集中するかが、今年のうちの課題ですね。」

 

ーその注目している領域とは具体的になんでしょうか?

一つは、人材です。コンサル業も続けていくけど、コンサル業ってうまくいけばいくほど必要なくなるかなって思っています。結局のところ、会社は自分たちだけで回せるシステムを作る方がいいです。コンサルには最近新しい人が進出してきたけど、うちは知識量も経験も違うから、そこは勝てると思っています。ただ、これが3年とか5年したらどうなるかって言ったら彼らも分かってくるし、新しく大手さんも来るので、そことは戦えません。

それよりも、別の部門じゃないかなって思って、たどりついたのが人材です。どんな事業があっても、どれだけお金があっても、動かすのは人なので、人材が最も重要。

日本人が中心に仕事しても、やっぱり優秀なミャンマー人がいないと動きません。この事業に関しては正直3年とかじゃ難しいけど、僕が17年間走ってきた強みを一番活かせる部分だと思っています。

 

ーミャンマーでは未だに働き口が少ないと聞きますが、これから外資がどんどん入ってきて、人材は求められるんでしょうね。

人材の需要は増えるでしょうね。ミャンマー人は、知識が少ないだけでメンタリティはスゴイです。ミャンマー人の中には仕事で徹夜する人もいますね。うちのオフィスの奥の部屋に行けば、毛布とかあるんですけど、うちのスタッフも徹夜している時がありますよ。

あと、スキルアップの志向が高いです。会社に行く前の朝7時に、会計学校に通っている人もいますからね。そういう生涯学習を大切にするって文化は、日本と近いと思っています。

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ミャンマーって昔は、日本よりも栄えてたんですよ。60年前のこの辺の写真、今と一緒で。1930年の東京とヤンゴンだったら、こっちの方が上ですよ。戦前にミャンマーに来ていた日本人の取材をしたんですけど、昔は日本よりこっちの方が稼げたから、その方は出稼ぎとしてミャンマーに来ていました。今ミャンマーにいる日本人って600人〜800人ぐらいだけど、戦前にどれくらいいたかっていうと、ヤンゴンで3000人ぐらいで、マンダレーで2000人ぐらいいたらしのです。

他にも、仕事を通じて貴重な体験をしました。元日本兵の方と話したり、ミャンマーで亡くなった日本兵の遺骨を一緒に探しに行ったり、戦後ずっと入れなかった日本軍とイギリス軍が衝突した所に60何年ぶりに日本人として入ったり。

「お前はこれをやりなさい。」って“ミャンマーに求められてる気”もしています。こういう気持ちが続いている限りは、ずっとミャンマーで働いていきます。それが、僕がこっちにいる理由でもあって、自分が生かされているとも言えますね。生かされてる限りは、自分の役目をしっかり果たしたいです。

 

ーミャンマーに生かされている。。。

みんな、何かに求められている。でも、考えてないか気づかないだけなんです。そこを考えないといけなくて、そうじゃないとチャンスが逃げていって、人生の幅が決まってしまいます。

多くのミャンマー人には夢はないですからね。夢見ても一緒で、農民の子は農民だし、上に上がるシステムがありません。僕は、うちの子供にも「お前は特別や』」といつも伝えています。全然人間って平等じゃないので、良い所で生まれた人がやらないといけないのです。

人材ビジネスもここに関わっている。企業理念にも掲げているけど、「みんなが夢を実現できる社会が一番」って思っています。せっかく生まれたなら良い夢見られた方が良いじゃないですか。

生まれた環境で人生が決まるのではなくて、彼らも上に上がれるシステムを作りたいですね。

 

日本人として生まれたメリットを知るという点で、海外に出ることは重要

ーそれでは最後の質問ですが、海外に出て働きたいけど、なかなか一歩踏み出せない若者に対して、メッセージをお願いします!

最近では国境っていう概念が薄くなっていて、企業も人材も流動的になってきていますよね。

海外で働くってなると『私、英語が….』ってよく語学をハードルに感じる人がいるけど、語学はあと付けであまり重要ではありません。外国人が日本語話せるから日本で働けるか、って言ったらそうではないんです。

とりあえず、経験することが大切で。自分が失敗と思うまでは、失敗は失敗じゃなくて、成功するまでの過程。決して、事業を起こすのが良いというわけではないし、海外で働くことが良いとも思いません。でも、日本人っていう特性を活かしてほしい。

日本人として生まれたメリットを自分で考えるためにも、海外に出ることは重要だと思いますよ自分の目で見て、自分で判断して、自分どうなんだろうって考える。日本だけじゃなくて、色んな社会があるという現実を見てほしいです。

別に「将来、何やっていいか分からない」のは当たり前だけど、自分の感覚で「やらないといけない」と思ったら挑戦してほしい。失敗しても日本人だったら、絶対食べていけるから心配無用です。

せっかく日本人として生まれたメリットがあるから、それを使うべきだと思いますね。

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(インタビュアー:リョウ 編集:ユーゴ)


《編集後記》

今となっては「最後のフロンティア」と評されて、注目されるようになったミャンマー。その地に17年も前から入り、コツコツ行動してきた西垣さんだからこそ言える説得力のあるメッセージばかりだった。僕自身も海外に出る中で「日本人のバリューをどう発揮するか」と考える機会を得てきた。西垣さんのように途上国に根を張り、日本人としての強みを発揮する人が増えてほしい。


《西垣氏関連情報》

◆ヤンゴンナウ(旅行•現地情報)
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アセナビファウンダー。慶應SFC卒。高校時代にはアメリカ、大学2年の時には中国、それぞれ1年間の交換留学を経て、いまの視点はASEANへ。2013年4月から180日間かけてASEAN10カ国を周りながら現地で働く日本人130名に取材。口癖は、「日本と世界を近づける」