青年海外協力隊出身、マレーシアの幼稚園教諭が語る「自分が自分であるための生きかた」

「幼稚園の先生」と聞いて、どれほどの人が「海外」という言葉を連想するだろうか。長野亜矢さんは、日本の幼稚園で勤務後、オーストラリア、トンガで教育に携わり、エリトリアではODA活動にも従事した経験を持つ。現在はマレーシアの幼稚園で勤務しつつ、自身の子育ても行うシングルマザー。子育て環境としても注目を集めているマレーシアの教育にも触れつつ、彼女を突き動かす背景に迫る。

 

ー昨日は幼稚園の見学をさせて頂いてありがとうございました。実際に子供たちと遊ばせて頂いて、すごい楽しかったです。みんな元気すぎますね(笑)長野さんが働く幼稚園ではモンテッソーリ教育を取り入れていらっしゃるとのことでしたが、裁縫とか、国旗に色を塗ったり、あれもその一環だったんでしょうか?

そうですね。モンテッソーリ教育は日常の活動の中に重きを置いているんですね。国旗を見本通りに塗っていくとか、国名を自分で書いてみるとか。針と糸を使ったものや、はさみ、のりを使ったもの、あとは機織りみたいな仕事もありますし。そうゆう作業(お仕事)を通して集中力や自立を促進する効果があるんです。まだ主流とまではなってないかもしれませんが、オバマさんとか各界の著名人達がその教育を受けてきたということで、注目を浴び始めてますよ。

 

ー日本以外の国で子供達を預かるということで何か気をつけていることなどありますか?

一応気をつけてるのは、「日本と変わらないような教育」ですね。行事で言うと例えばお泊り会があったり、運動会、発表会、親子遠足があったりします。それから季節感ですかね。マレーシアは日本と違って季節が年中一緒じゃないですか。でも、春夏秋冬を伝えて、季節に関わるものを作ったりします。安全面については、水にはやはり気をつけています。うがい用の水は浄水したもの、飲水は一度煮沸したものを使っています。

 

ー逆に「これはマレーシアならでは!」というのはありますか?

教育環境は大きいですね。まず、親御さんのお仕事の都合でマレーシアにいる期間が変わるので、園児の入れ替わりは激しいです。そこは子供たちも慣れてますね。だから、新しい子が来ても、見学の人が来ても、すごく人懐っこい。新しく入って来た子達もすぐ順応しますね。

人種の多様性に対しての免疫も強いですね。見慣れてるんでしょうね。幼稚園の外でも本当に様々な人種がいますし、ハーフの子もすごく多いので。それは、マレーシアならではですよね。

 

ーそれでコミュニケーション能力が高まったり、ダイバーシティへの柔軟な素養みたいなのが身についたりするんですね。そんな環境で育っている子供達に対して、こうなって欲しいという思いはありますか?

こっちの子達はたくさんの民族の人たちと別け隔てなく交流するし、英語にも免疫があって、バスの運転手にも平気で話しかけるんですよね。この環境で培ったものは大切にしてほしいし、日本だけじゃなく、世界を舞台に活躍してくれたらと思いますね。

 

結婚前に行った海外インターンシップが私に羽を生やした

 

ーここからは、長野さん自身のお話も聞きします。まずマレーシアで働くことになった経緯を教えていただけますか?

きっかけは、結婚でした。私もはじめは、日本の保育園に6年間勤めていたんです。6年間も勤めていると立場上辞めづらくなる。それこそお給料も良かったですしね。それが結婚をするということで、辞めるきっかけを得た。ただそれでいろんなものが吹っ切れてしまったんですね。

もともと海外旅行が好きで、毎年のように行っていたんです。それが結婚したらなかなかそんな機会もなくなってしまう。なので、当時の婚約者にお願いをして、結婚をする前にオーストラリアへ9ヶ月間のインターンシップへ行かせてもらえることになったんです。やっぱり、住むのと、旅行とは全然違うじゃないですか。そうしたら、もっといろいろな世界を見てみたいなってなってしまったんです。

オーストラリアから帰国したら、ちょうど青年海外協力隊の募集があったんです。それですぐに応募して。そうしたらたまたまその試験に受かって。そのままトンガに派遣ということになったんですね。

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ーちなみにその婚約者の方は、青年協力隊に参加するのを承諾してくれたんですか?

その、オーストラリアから帰って来た時に、「すいません。さようなら、結婚できません」ってなってしまって(笑)

 

ーそれはすごい決断でしたね(笑)そもそものきっかけの「結婚」を諦める形になったわけですね。それほど大きな心情の変化だったんですか?

海外で暮らしたのが、私に羽を生えさせてしまったんでしょうね。「もっと広い世界を見たい!」ってさせたんですよ。家庭に収まりたくないというか、そんな感じでした。

 

海外で働く協力隊に必要な「スイッチ思考」

 

ー実際にトンガでの活動はいかがでしたか?

最初の要請は「村にある幼稚園で教師を育成して欲しい」とのことでした。というのも、トンガにはちゃんと資格をもった教師がいなかったみたいなんです。だけど、いざ行ってみたら、実は全部ウソで(笑)現地で私についた二人のパートナーは全然やる気がなくて、「先生になる気もない」って言うんです。肝心の幼稚園には子供もいないですし、おもちゃもないし、何もないゼロの状態でしたね。

トンガ人ってすごいおおらかで、何も考えてくれていないんです。最初はそれに対してイライラして、「なんで呼んだんやー!」って(笑)そんな感じで教育大臣ともしょっちゅう喧嘩してたんです。でもある時、ちょっと考え方を変えて「まあいっか」となったんです。「とりあえず自分の持ってる技術を使って、やりたいようにやってみる。そこから、『これいいやん』って盗んでくれるようになったらいいかなー」と思って。考え方を変えたら、「こんなこともできるんじゃないか、あんなことができるんじゃないか」っていろいろと出てきたんですよ。

 

ー実際にどんなことをしたんですか?

業務の傍らで、子供の手遊びのワークショップを開かせてもらったりしましたね。あとは、日本の曲をトンガ語にアレンジしてみたりしました。子供の歌ってワンパターンのものしかなかったんですよ。なので、作った歌をビデオにとって、みんなが学べるようにしたんです。すると現地のラジオ局から「ラジオ放送で歌ってくれないか」って依頼が来たんです。私は本島にいたんですけど、離島の子供たちでも聞けるようにって。

オリジナルの絵本も作成しました。予算申請から、作成まで。英語の絵本は寄付によってあったんですけど、トンガ語の純粋な絵本はほとんどなかったんですよね。そんな感じでね、本当にやりたいようにやっていたんですよ。

 

ーそうした行動の一つ一つは、先ほどおっしゃっていたような「考え方を変える」ところから始まっているかと思うんですが、どうしてそう考えることができるようになったんですか?

自分が「当たり前」だと思ってたこと、日本では「当たり前」だと思ってたことが当たり前じゃないって思えたんですね。その自分の「当たり前」をこの人たちに押し付けてはいけないって思ったんです。この人達はこの人達の文化があるから、その文化をまずは知るところから始めようってなって。でもその文化になれると、「あーなんて心地いい、なんてリラックスした人たちなんだろう」って(笑)

 

ー海外で活躍できる人の条件って、「スイッチの切替」がちゃんとできる人なのかなと。それは言語も、文化も、慣習も、金銭感覚も、ちゃんとローカライズできる人かなと思いますね。こ実際に現地で生活してみて初めて得られることかもしれないですね。僕はまだわかんないんですけど(笑)

うん、多分そうじゃないと病みますよね(笑)本当に協力隊に必要なことって、柔軟な思考だと思ってます。日本ではなんでも揃っているでしょ。でもトンガだと、画用紙も絵の具も、絵筆だって、ものすごく高い。「ない、だから買う」じゃなくて「ない、じゃあどうしようか」みたいな、ワンテンポ置いて考えることができたんです。なんかそうゆうのが自分の中ではすごく面白かったですね。

例えば、日本の幼稚園では牛乳パックの工作を結構やりますよね。でもそれは日本に牛乳パックがあるからできることなんです。それをトンガに持ってきても意味ないんです。あるもので試行錯誤しながらやるのが面白い。逆に、ないものが多い分、考えることはすごくしました。そうゆう試行錯誤は本当に楽しかったですね。

 

シングルマザーでも働きやすいマレーシア。「自分のやりたいこと」を優先に

 

ーシングルマザーで、しかも「海外で働く」というのはすごい勇気がいりますよね。心配とかなかったんですか?

実際度胸いりますね。壁はいくつもあって、まず面接の時ですね。これは日本での面接でも同じですが、「子供が病気したらどうするんですか?」って必ず聞かれるんですね。日本にいたら、「家族がいるから、なんとかなるかな」というのがあるんですが、海外だとそういうわけにはいかない。そんなん聞かれても「なんとかします」としか言いようがなかったですね(笑)

もう一つは誰に子どもを預けるかということでしたね。タイのインターナショナルスクールは一度内定を頂いたんですが、結局ベビーシッターさんを探すのが難しくて断られてしまいました。でもやっぱり心のどこかで「海外で働きたい」という気持ちがあった。子供がいても、自分のやりたいことを優先したい。すると、たまたまマレーシアから募集があったので、こちらの幼稚園に来ることになったんです。

 

ーじゃあ幼稚園の先生で、他の子も育てながら、自分の子供も育てられるという環境だったんですね。

そうですね、それができたのは、ほんとに良かったです。もちろん職場のサポートもそうなんですけど、シッターさんも見つけられましたし。マレーシアはわりと、共働きしてる人が多いんです。そうゆう文化なので、ナーサリーやベビーシッターが見つかりやすかったですね。そうゆう環境があったから長く続けられるのかもしれないですね。

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ー僕の親もそうなので、なんとなく分かるんですが、シングルマザーの方っていろいろと諦めなくちゃいけないことが多いと思うんです。その一方で、シングルマザーでも自分のやりたいことを追い続けられているその生き方の背景には何かあるんですかね?

そうですね、私の親がそういう生き方の人だったんです。うちの母親もシングルマザーで、私たち姉妹二人が幼い頃から一人で育ててきた。家事も子育ても仕事も全部やっていて、かつ自分の趣味や習い事も、友人との飲み会もしていました。

私たちが小さい頃なんて、離婚率はそんなに高くない。そんな中であんなパワフルな母を一番近くで見ていたので。「一人でも大丈夫」って確信してましたね。なんとかなるとしか思えなかった。そんな母親になれたらと思ってました。それで実際になんとかなっているし、そりゃ苦労もありますけど、ほんと、なんとかなりますよ。

 

ーそんな背景があったんですね。なんかすごく納得しました。たくさんのお話をありがとうございました。
最後の質問になりますが、今後「海外で働きたい」と思っている女性たちに向けてメッセージがあればお願いします。

まあ、「やればできる」ですよね(笑)できないことはないかなって思います。ほんとにね、自分がやる気にさえなって、ちょっとした勇気があって、そこに飛び込んでいけば、なんでも絶対できると思うし、こうやってシングルマザーでも自分のやりたいことが叶えられると思いますよ。先のことを憂いても仕方ないんで。やりたいと思ったらやれると思うし。

特にシングルマザーは、諦めがちですから。でも、子供がいることを理由に、やりたいことを捨てないでほしい。我慢してたら自分が自分じゃなくなると思うんです。子供は必ず自分のことを理解してくれると思いますね。私もそうだったし、息子もそうだと思うんで。
母親が頑張って、イキイキしてるほうが、子供にとっては一番いいのかなって、そんな風に思いますね。

 

Interviewed in Apr 2013

 

《編集後記》

「こんなにパワフルな女性がいるのか」と思うほど、パワフルな女性だった。その前向きさや、柔軟な思考は、「海外で働く」にはもちろん必要であるが、同時に普遍的に必要なことだと強く感じさせられる。なんでこうも海外には熱い人たちばかりなのか。一国目にして、がんがん刺激うけてます。「やればできる」なんて言葉、腐るほど聞いてきたけど、これって本当にやった人が言うと重みが違う。




ABOUTこの記事をかいた人

早川遼

高校時代はサッカーに没頭。年中ケガと身長を悩まされる。鈴木と共に「アセナビ」を立ち上げ、ASEAN10カ国を周る。2013年冬にアセナビを卒業。HR関係の会社に就職予定。