日本からシンガポール、そして世界へ!シンガポール唯一のビジネス情報誌「AsiaX」と日本の食文化を世界へ発信する「OISHI」を手掛けるMEDIA JAPAN代表取締役、内藤剛志氏

2016.10.20

1995年、大手ゼネコン会社の駐在員として渡星。2003年の独立後はシンガポールで唯一のビジネス情報誌「AsiaX」や日本の食文化を英語で伝える「OISHII」の発行を通してシンガポールと日本の架け橋になりたいと語る内藤氏。しかしそこに辿り着くまでには、想像を絶する厳しい幾つもの試練があった。アジア通貨危機、SARSといったシンガポールの激動期を経験した内藤氏に、シンガポールの強みも伺った。

《プロフィール|内藤剛志氏》

山口県生まれ。大学卒業後日系建設会社に入社し、本社人事部、建設プロジェクトの管理部門を経て1995年よりシンガポール支店へ赴任。シンガポール支店およびマレーシア現地法人の経営管理を担当。2003年3月に本社が会社更生法を申請、海外全面撤退にともない、シンガポール、マレーシアの清算業務に従事した後、2003年8月に同社を退職。2003年9月にMEDIA JAPAN PTE. LTD.を設立、代表取締役に就任し現在に至る。

日本とシンガポールの架け橋に

—MEDIA JAPANの事業内容を教えてください。

弊社の事業は大きく分けて3つです。1つ目は、シンガポール唯一の日本語無料ビジネス情報誌「AsiaX」で、2つ目は日本の食文化を英語で世界に伝える無料情報誌「OISHII」です。3つ目は法人向け受注制作です。例えば飲食店のメニューであったり、『地球の歩き方』のシンガポール版、日本貿易振興機構様の『シンガポールスタイル』、日本人会夏祭りのTシャツの制作、イベント運営までと幅広く手がけています。どれも一貫して日本とシンガポールの架け橋になることを目標としています。

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想定外のシンガポール赴任

—内藤さんは1995年からずっとシンガポールにいらっしゃるそうですね。始めてシンガポールに来た時から現在に至るまでの経緯を教えてください。

まず、私は海外で働きたいとは思っていませんでしたし、むしろ自分から望んで行こうとは考えていませんでした。しかしあるきっかけでシンガポールに来ることになったのです。

もともとはゼネコンの社員で、入社後まず人事部に配属され、今でも公私ともども師と仰ぐ優秀な先輩達に囲まれていました。3年が経ち、ゼネコンらしい現場の仕事を経験したいという思いが叶えられ、横浜支店へ配属されました。

そこで現場管理、事務管理もひと通り経験し、必要とあらば、ヘルメットに安全靴で現場へ駆けつける事もありました。次は営業部で経験を積もうと考えていた矢先、血気盛んな若手社員だった自分をいつも励まし見守っていてくれた人事部の部長から突然本社に呼び出されました。横浜支店に移ってまだ一年位のことでした。

「4月1日からおまえは海外事業部へ異動だ。シンガポールへ行ってくれ。」といわれ、正直戸惑ったのを覚えています。「お前のように若い人間がこの業界で営業職につくと、今後その道にずっぽりつかって抜けられなくなるだろう。そうなる前に海外へ行ってもっと経験をつんでこい。」ともいわれました。

考える時間が欲しかった自分に、人事部の別の先輩が、「内藤、 海外行ってこいよ、良い経験になる。部長は、『 俺は昔、海外に行きたかったが、行けないままこの年になった。自分が叶えられなかった夢を内藤に託したい』 、って言ってたぞ。」と教えられました。

自分の夢を託す、とまでいわれた以上、期待に応えないといけない、裏切れない、自分にとっても必ずプラスになるはずだと思い、その場で踵を返して部長のもとへ行き、シンガポールでの駐在の任を受ける決意を伝えました。英語もろくに出来ない自分でしたが、後には引けませんでした。

これが、この先22年も暮らすことになるシンガポールへの旅立ちになるとは、この時予想だにしていなかったことはいうまでもありません。

到着したチャンギ空港での第一印象は、シンガポールにはいろいろな人種の人がいるな、ということ。シンガポール支店の社内資料には目を通していたものの、シンガポールについての基礎情報はほとんどなかった上に、 海外に出る事すら2度目の自分にとって、五感への刺激は強烈でした。

異なる肌の色、服装、言葉、鼻をつく匂い。 出迎えた支店の上司や同僚ですら、当時の駐在生活を体現するかのように、現場やゴルフによる日焼けでやけに黒かったのを覚えています。一歩空港から外へ出ると、眩しい日の光が飛び込んできて、むっとするような暑い空気に包まれました。

アジア通貨危機で万事休す

それから2003年までシンガポールとマレーシアの管理部門を主に担当しました。営業補佐から現場の立ち会い、クレーム処理までなんでもこなす日々が続き、その過程で、97年の後半にアジア通貨危機、2000年問題、また重症急性呼吸器症候群(SARS)による経済活動の冷え込みなどを経験しました。

東西のビジネスリーダーを繋ぐポジションにあるシンガポールは、ちょっとした景気の変動に大きく影響されます。アメリカがくしゃみをすると日本は風邪を引き、シンガポールは高熱にうなされる(肺炎になる)、という具合でした。

そんな中、苦労は買ってでもしろ、を信条に、全てに体当たりでした。バブル期からの悪しきゼネコン体質を引きずっていたせいで、曖昧になっていた売掛金の回収、減価償却のリスト等を整備。また一方で、国の法的な制度や、経済指標や会計システムを学ぶセミナー等にも出来るだけ参加し、ネットワーク作りにも励みました。

日本では直接会って話をする機会をもつのも難しいようなビジネスの先輩諸兄とも、杯を酌み交わし、たくさんの事を学ぶことができました。

また、英語をマスターすべく、日々少しづつ努力を重ねていました。どんなに酒を飲んで帰宅しても毎日5個新しい単語を必ず覚えたり、スケジュール帳への書き込みは必ず英語で、という程度のものでしたが、効果はありました。

2001年海外各拠点に相談なく、海外全面撤退の発表を日経新聞で目の当たりにしました。拠点長会議の後、それが一部撤回されることになるのですが、上司のモチベーションが大幅に下がっていました。

そして、シンガポール、マレーシアの業務縮小がはじまりました。翌年、会社全体の経営状態そのものが危ういと気付き始めました。今の世の中どうなるか分からない、大会社であっても潰れる世の中だと・・・

会社の看板に頼ってではなく、生きて行くのは自分、内藤剛志だと思い、起業を意識したのもこのころでした。自分の足で立つのにまず必要になるだろうと思い、シンガポールのPR(永住権)を申請しました。

2002年の3月に本社は会社更生法が適応されました。会社全体が清算へと向い、マレーシア現地法人とシンガポール支店の清算業務を手がけました。日本国内なら、会社更生法が適用になったといえば、負債を免れることができるのですが、シンガポールではそうはいきませんでした。

現地取引先への支払い遅延の説明や会社更生法に関する説明をしてまわるうちに、取引のあった日本の銀行のシンガポール支店は、立て続けに支店の口座を凍結しました。以前同業他社の知り合いから、日本の銀行は直ぐに口座を凍結するので、地場銀行に資金を分散しておくべきだと聞いていた事から、少しでもそうしていたことで難を逃れる事ができました。

それに加え、人の解雇が何よりも辛かったです。 生活のかかっている人間からは、「お前の住んでいるところは分かっている、夜道を歩く時は気をつけるんだな」という恨み言を言われた事もありました。

逃げ出さずに一つ一つ対応することが誠意と思い、事に当たるのみの日々でした。本社が吸収合併されることが決定した後、辞表をもって日本へ飛びました。その時の自分には、既にはっきりとシンガポールに残る意志が固まっていました。

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独立後も続く困難

—なるほど、波乱万丈だったのですね。ではそれからどうなったのでしょうか?

清算業務を淡々とこなしながら、シンガポールで起業する決意を固めて少しずつ準備を進めていました。

シンガポールと日本を比べると、起業する環境として、シンガポールの方がフットワークが軽い。

つまり、起業などの手続き等、政府機関とのキャッチボールが早い。又、シンガポールは準先進国として今後ますますの可能性を秘めていると思いました。人生は一度きり、勝負してみる土俵として不足はないと確信していました。

清算業務を終えて無事退職した一ヶ月後、株式会社メディアジャパンを設立。いろいろな情報が飛び交う中、情報の受け手として現地の日本語のフリーペーパ―などの紙媒体に面白いものがないという実感と、インターネットがこれからの情報ツールの主役になるという確信をもとに、正確な情報が伝わる仕組みをつくりたい、日本とアジアの架け橋になるようなものを作りたいという思いから、これまでにない日本語メディアを発信するビジネスを立ち上げました。

媒体の名前は、「AsiaX」。Xは、Express、 早くて正確なもの、を意味します。過去にメディアで仕事をした経験等はなかったですが、自分がやろうと思えば絶対できると信じていました。清算業務等を乗り越えて、死ぬ気でやれば何でも出来るという気概だけは十分ありました。

とはいえ、気合いや情熱だけでビジネスが軌道に乗るわけではありません。

メディアの会社を起こしたものの、建設機材の取り扱い等、横道のビジネスにも気をとられたり、経験のない世界だけに、印刷、配達などの社内体制を整えるのにも時間がかかり、資金ばかりが目減りして焦る日々が続きました。ようやくオフィスが整い、人を雇い入れて本格的に始動するまでの紆余曲折は想像以上のものがありました。

創刊号が出た2004年7月6日。シンガポール最大手の新聞社の輪転機にかけられたはずの「AsiaX」第一号でしたが、何度も印刷テストをしたにも関わらず、本番で印刷がぶれるというアクシデントに見舞われました。

スタートから広告主一件一件に頭を下げてまわるという苦しい状況ではありましたが、媒体がまだ出ていない時から広告を出してくれて励ましてくれた方々に報いるためにも、自分を発奮させ、クオリティー第一で対応してくれる印刷業者を探し出すことで乗り切りました。

それから毎号発行を重ねて行くごとに、多くの出会いがあり、広告主や読者からの励まし、様々なコラボレーションやハプニングがありました。

紙媒体としてのクオリティーを上げるための努力や、今後の可能性を拡大するための試行錯誤のすべてを積み上げているうちに、創刊から12年が経ち、2016年11月には313号を発行するまでになりました。

現在は、紙媒体の「AsiaX」の他、電子ブック、ウェブサイト、Facebook、Twitter等で情報発信を行っています。

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(オフィスの様子)

常に進化し続けるメディア

—なるほど、AsiaXにはそんな経緯があったのですね。内藤さんは今後AsiaXをどのようなメディアにしようと思っているのでしょうか?

現状に満足することなく、常により良いメディアに進化させていきたいと思っています。時代が進むと共に、技術やモノが新しく改良され、環境がどんどん変わっていくます。

状況が変わっても、広告主や読者に求められる媒体を作っていくしなやかさを持ちながら、一ヶ月前と比べても常に進歩し続けていけるよう今でも心がけています。これからも 日本とシンガポール、ひいてはアジアの架け橋になれるよう邁進するつもりです。

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ローカル目線で日本の魅力を発信

ーAsiaXもですが、OISHIIはフリーペーパーとは思えないくらいこだわっていらしゃるように感じます。有料でも十分だと思うのですが、何かこだわっている点はあるのでしょうか?

日本人が日本人目線で発信するのではローカルの方々には伝わりません。必ずローカル目線の英語で伝えることに、強くこだわっています。OISHIIというメディアがきっかけとなり、日本の地域活性化へつなげていきたいと思っています。

2020年には東京オリンピックが予定されています。インバウンドで日本を活性化させるには、東京という点ではなく、日本全体という面で考えていかなければなりません。その一助を担うことができればと思っています。

シンガポールで起業のすすめ

起業する場所としてシンガポールを選んだには理由があったのでしょうか

私のこれまでの経験を成功談として語るには、更に数年必要かもしれませんが、シンガポールが一個人にとって起業するにふさわしい点、また起業にあたり、アドバイスができることがあるとすれば以下の事のだと思います。

ビジネスのためのインフラ整備を国がバックアップ

シンガポールでの起業は、 国策として政府が奨励している事もあり、 外国人といえども大いに道は開かれています。 簡単にいってしまえば、個人の特殊な技能やビジネスプランがシンガポール経済に有益と見なされれば、起業家ビザが発給されます。

その後は、個人事業者として、または有限会社として会社登録する事ができます。業種によっては、ライセンスが必要ですが、そちらの方も、必要な書類や手続きをしっかり踏めば、他国に見られるように外国人だからといって不利になったり何ヶ月も待たされたりするような事はありません。

快適なビジネス環境を整えるために、政府の対応は早く、シンガポール島内ほぼ全域をカバーする高速インターネット網のインフラ整備や、知的財産権を守るための法制定なども充実しています。

また、国の治安も安定しており、強い政府をバックに、他のアジア諸国に見られるようなアンダーマネー(裏金)や、官民の癒着などもない透明なビジネス環境は、何よりもありがたいです。

但し、強い政府の統制力の表れの一つとしてセンサーシップ(検閲)の締め付けがきついのも特徴だといえます。メディアへの監視も厳しく、弊社でも国や政策への批判、人種や民族等への差別的な表現などが含まれないよう細心の注意を払っています。

「郷に入れば郷に従え」、ローカライゼーションの大切さ

起業をどこの国や地域で行うにしても、いかにローカライゼーションを上手く図るかという事が一番大事かもしれません。日本語メディアを展開するとはいえ、海外の小さい日本人社会のみを対象にして、日本企業との間だけでビジネスをするというのは所詮無理があります。

ローカルの社員を雇い、協働する機会、関連業者などとの付き合いやコラボレーションを生み出す事が、ビジネスをさせてもらっているその国の発展に少しでも貢献することだと考えています。

外から日本を見て欲しい。

—読者へのメッセージをお願いします。

是非、積極的に海外に出て、外から日本を見て欲しいです。国内にいては気づかないこと、感じられないことを直接、海外でローカルの方と交わることで、日本の良さも悪さも見えてきます。

次に、自分の背中は自分で押してください。そして失敗を恐れないでください。

しっかりと自分軸をもって、前に向かって進んでほしいと思います。どちらもありふれた内容ではありますが、やはりこの2つに尽きると思います。

最後に。2003年にMEDIA JAPANを創業しましたが、環境はどんどん変わっていきます。常に環境の変化に適応しながら、読者の皆様に役に立つ記事、ニーズの高い情報を続けていきます。これからも進化し続けていきますので、ぜひ注目してください。