2016.03.02
小中高とやんちゃだったが、高校生の時に聞いた講演がきっかけで、スイッチが切り替わったという山勢さん。大学入学後はカンボジアのゴミ山で非営利活動を始め、大学を1年で中退、その後自らバナナペーパーで商品をつくる事業を立ち上げた。また現在、シェムリアップの大学で経営学を学んでいる。22歳にして実に様々な経験をされてきた山勢さんが持つ、カンボジアに対する想いとは。
《プロフィール|山勢拓弥さん》
1993年生まれ、東京出身、福岡育ち。
高校卒業後、大学に進学するが、カンボジアのゴミ山で活動を始めるため1年で中退。カンボジアの現地旅行会社で働きながら、ゴミ山に通っていたが、ゴミ山で本格的に事業を開始するため旅行会社を辞め、一般社団法人クマエを設立。日本語を通じての教育事業とゴミ山で仕事をしなくてもいいようにとカンボジアの村で新しい産業バナナペーパー*を開始。現在は1からビジネスを学ぶためカンボジアの大学に通っている。
*不要になったバナナの茎を再利用してつくられている紙
目次
大学中退を決意し、カンボジアへ
—なぜカンボジアで働かれることになったのですか?そのきっかけを教えてください。
大学1年生の春に、友達のお母さんがしていた古着配りのボランティアに誘われ、カンボジアで古着配りをしたんです。そのお母さんがカンボジアにたくさん知り合いがいて、一人の在住者の人と知り合いました。
その人に、学校建設をするから来てみる?という話をもらって。夏休みに入った時に、再びカンボジアに2ヶ月ほど滞在、学校建設をしました。そこで、学校建設をした人と「まだ残りたいよね」という話になったんです。
その後活動を本格化させるため、大学1年の冬に学校を中退し、カンボジアへ渡りました。
カンボジアでやっていくには、まずお金を稼がなければならない。最初はメンバーの一人として、ツアー会社の立ち上げの手伝いをしました。ツアー内容は著名な遺跡を回るのではなく、学校建設など村とのつながりを作るようなものです。
そのツアーの一環で、僕はシェムリアップから25キロくらい先にあるゴミ山を見に行ってみました。最初はシャンプーや軍手などを配る活動をしていたのですが、もっとちゃんとガイドができるような活動をしないとねという話になって。そこで、村の人がどのくらい収入があるかとか、プライベートな話までしながら調査を始めました。
でも、次第にゴミ山って観光地にしていい場所、僕が案内していい場所じゃないなと思うようになって。お金を稼ぐ方法に違和感があったので、そのツアー会社を抜けることになりました。
そこで、ゴミ山の近くの村で何かできることはないかなと思って始めたのが、バナナペーパーでした。
—なぜバナナペーパーを選んだのですか?
ゴミ山に関わっていて、ゴミを出さずにって考えたことはなかったのですが、日本語で書かれたゴミもあったり、市内でよく使われているものがあったりするんです。ゴミの墓場がゴミ山なのかな、ではゴミの墓場をどうしていこうかなと考えていったときに、自然のものを使って何か作りたいなという気持ちはすごくありました。
そんなことを色々な人に話していたら、ある時バナナペーパーの存在を教えてもらったのです。アフリカのルワンダでバナナペーパーを作っている、HAT de Coffee & BananaというNPO法人の津田さんという方とご縁があり、カンボジアに来てくれることになって。それがちょうど2014年末のことです。
バナナペーパーは、カンボジアでは初なんです。どこにもない素材っていうことで評価は受けていますね。
「日本は何でもあるけど、何かがない。スーダンは何もないけど何かがある。」
—具体的な事業内容を教えてください。
バナナペーパーでポストカートや便箋セット、しおりなどの商品を作っています。最初、バナナペーパーの作り方は自分が教えましたが、今は現場の細かいことはカンボジア人スタッフに任せています。
ぼくの主な仕事は、先を見据えること。商品を使ってどうできるかということを考えています。
今は委託販売で、7店舗くらいに置いてもらっています。日本のお店や、ホテルに置いてもらうことが多いですね。
現在5人のカンボジア人スタッフを雇っています。村の人たちは224世帯、1,000人くらいいるのですが、そのうちの約10%、100人がゴミ山に通っています。ぼくはゴミ山に通い続けていたので、以前からある程度認知はされていて、一緒にやりたいと言ってくれる人は結構いました。
最初は3人から始めて、今ではほぼ毎日のようにカンボジアの人が見に来て、雇って欲しいと言ってくれます。ですが、正直ビジネスとしては全く成功していません。バナナペーパーがもっと認知された時に、もっと人が雇えるようになると思います。
—ロールモデルはいましたか?
NPO法人ロシナンテスの代表に刺激を受けました。スーダンで医療活動をしている大きな団体です。
ぼくは小中高と模範的な生徒ではなくて、悪さばっかりしていたんです。でも高3の冬休みに、ロシナンテスの代表が高校に講演しに来てくれて、そこでスイッチが切り替わったんですよ。
その人が講演で言っていたのは、「日本は何でもあるけど、何かがない。スーダンは何もないけど何かがある。」っていうことで、日本しか知らない自分にとって引っかかる言葉でした。後にカンボジアに来た時に、「まさにあの言葉通りだ」と実感できましたね。物はないけれど、人の温かみがあって。
その講演を聞いた時に、すごいなと思ってすぐ応接室まで行ったんです。当時は消防士になりたかったので、そんなことをずっと代表と話していました。そしたら「それだけ熱い思いがあるなら、震災があった東北に来いよ」って言われて。ロシナンテスはスーダンだけでなく震災後、東北でも活動していたので、その後すぐに東北に行きましたね。
そこにはロシナンテスの団体のコミュニティがあって、その人たちの話がすごく面白くて。18、19歳のころって、大人の世代に憧れるというか、話するのが楽しかったですね。
—退学してカンボジアに行くとき、周りの反対や自分の中での葛藤はありましたか?
学校やめてこっちに来るって決めた時は、早かったです。すぐに退学届けをもらって、チケットを買って。
でも、退学届を出すまでに一ヶ月くらい猶予があって、いざ出そうとした時に、「あれ、これでいいのかな?」とちょっと立ち止まるところがありました。出さなければ、このままの生活していけるのになと。でもみんなにはカンボジアに行くと言っていた手前、なんとなく立ち止まれない。
最終的には、行ってみなければ怖いも何もわからないなと思って、カンボジアに行くことを決断しました。
—大学を辞めてカンボジアに来て、生活は厳しくなかったですか?
来てから1年半くらいは、ツアー会社で給料をもらいながらやっていたので、そんなに苦しいことはなかったのですが、辞めてからが厳しかったです。
ちょっとの貯金を切り崩しながら事業をやり始めて。最初は通帳のお金がどんどん減っていって、0になりマイナスになってということもあり、怖かったです。そういう時は情けない話ですが、カンボジア人の彼女にお金を借りながら生活したこともありました...。
今では普通の生活をする分には何の苦労もありませんが、先を見据えた時、事業を大きくしていくためにはこれじゃだめだなというのはあります。
カンボジアの大学に入学 ! 経営学を学ぶ
—海外で働かれていて、良かったと思うことはありますか?
日本では経験できないことだらけですよね。むしろ僕は日本の就活がどういうものなのか気になります。
お前は日本で就職したら絶対クビにされるぞ、って言われますけど。(笑)
—逆に苦労したことはありますか?
カンボジアの治安の問題にも関わる話ですが、一度カンボジア人のバスの運転手に、鉄のパイプでボコボコにされ、血だらけになって帰ってきたことがあって…。その時は精神的にくるものがありましたね。
相手からするとただの外国人ですが、ぼくにとってはカンボジアのためにっていう思いがちょっとでもあるので、その想いをぶっこわされて、本当に日本に帰りたいと思ったことはありました。そんなことも、今となっては笑い話ですけど。
あと、もっと経営学を学んでおけば良かったなと思います。事業を立ち上げるにも、何をやったらいいのかわからなかったです。
ものを作ってものを売るという簡単なことだと思っていたのですが、そこには色々な価値の付け方がある。例えばカンボジア初のバナナペーパーだということや、ゴミ山という背景がある中で作られたことなどが商品に価値を与えます。でも、最初はそういう価値の付け方を知らなくて。色々な人から教えてもらいましたが、基礎が全然なっていないので、感覚でやるしかなかったです。
マネジメントする時も同じです。人の顔色を伺うことはできるのですが、「マネジメント」の基礎がない。ビジネス的なものをもうちょっと学んでおけばよかったなと思いましたね。
でも、「もっと学んでおけばよかった」というのは今でもできることで、今カンボジアの大学に通い、経営学を学んでいます。別に日本でやる必要はなくて、こっちでも学びたいと思ったら学べるんです。
パニャサストラ大学という大学で、現在1年生です。授業の内容は日本とほぼ一緒だと思うのですが、やり方が全く違いますね。
日本だと生徒は聞く側で、「教えられる」感覚ですが、カンボジアでは先生が質問を投げかけて、生徒たちで話し合うんです。答えがないんですよね。先生はそれに対して「いい考えだね」とか、「こうした方がもっと良くなるよ」という風にアドバイスしてくれる存在で、「先生」という感覚ではないです。
周りは僕以外カンボジア人ですが、授業はクメール語2割、英語8割ですね。
ある程度英語ができれば、日本人でも入学できます。僕は入学試験として英語のテストを受けました。私立の大学ですが、学費は年間で400ドルくらいです。
迷っているのは、「世間体を気にしている自分」
—描いている今後の目標、キャリアについて教えてください。
数字的な目標としては、100人のゴミ山で働いている人のうち、バナナペーパーで働ける人を50人雇いたいです。
ぼくが今していることは、日本の技術を持ち込んで、バナナという現地の素材と日本の技術を融合してものをつくることだと認識しているのですが、それをもっと広めていきたいですね。
どんなところでもできるようなビジネスにして、バナナペーパーがどんどん真似されるようになって欲しいです。最終的には、いろんなところでバナナペーパーが作られていれば、嬉しいなと思います。
今は商品を作り出すための素材を作っているのですが、日本の技術とカンボジアの素材というのをもっとブランディングして、オリジナルのブランドとして今後伸ばしていきたい。
日本でも、和紙を紙としてではなく、バッグなどの商品にして売っているところがありますよね。そのように、いつかは日本でも売りたいと思っています。
—海外就職、起業をしたいけれど迷っている人にメッセージをお願いします。
多分、迷っているのは「世間体を気にしている自分」であって、本当の自分ではないと思います。
本当にやりたかったらやれば良いだけ。自分が海外に出てみれば、あとは自分がどうするか。ぼくのように、もっと学びたいと思うなら現地の大学に行けば良いですし。
こうなりたいとかこうしたいとか、想いを語る人は多いじゃないですか。でもそれを行動に移せる人はなかなかいない。カンボジアに来るときに、「行動はメッセージ」という言葉をくれた人がいました。想いは大事だけど、結局自分自身を作るのはその行動であって、想いじゃない。僕が悩んだときに、思い出す言葉です。
【編集後記】
今回インタビューさせていただいた方の中で、最年少である山勢さん。大学を辞め身ひとつでカンボジアに来た後、今に至るまで様々な苦労を乗り越えてこられたのだろうと思う。日本の学生である自分と比べて、その覚悟と経験値は、全く違った。山勢さんは、「行動はメッセージ」という言葉を自ら実践してこられた。行動に移し続けていけば、たとえ失敗したとしても、得られる経験値は想いを語るだけの人の何十倍にもなるのではないだろうか。