教育・環境・観光・交流 ミャンマーの人のために様々な分野で実践する藤村氏 今の若者に伝えたいこととは

特集「ひとのための国際協力ってなんだろう?」の第2弾は、テレビがない時代から外国に好奇心を抱き、国際機関やNGOで国際支援を行っている藤村建夫氏。豊富な経験、そしてその中で抱いた若者に対する思いを伺いました。

 

《プロフィール|藤村建夫氏》

1943年博多生まれ。1966年長崎大学経済学部で経済発展論を学ぶ。バターフィールド&スワイヤ(ジャパン)リミテッド社というイギリスの民間船会社に就職するが、大学のゼミの先生の紹介で、(社)海外コンサルティング企業協会にて転職した。その後、専務理事の勧めでイギリスのサセックス大学で開発経済学修士課程に留学。帰国後、32歳の時、国際協力事業団(JICA)に入団。1987年から3年間、ミャンマー事務所長を務める。50代で、国連開発計画(UNDP)に転職し、退職後、東京大学新領域創成科学国際協力学専攻非常勤講師などの経験を経て、現在は、NGO団体「MJET(Myanmer Japan Eco-Tourism:ミャンマー・日本・エコツーリズム)の会長を務める。

 

ラジオ放送のドラマを聞いて海外に憧れ、そして国際開発の道へと進んだ学生時代

ー 海外に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?

私が小学生の頃は、現代のようにテレビはなく海外が見えない時代だったので、ラジオのみで外国の情報を得ていました。当時、10代の少年が、今のフィリピン地域との貿易で活躍するという新諸国物語の『風雲黒潮丸』(NHKラジオドラマ)を毎日聞いていました。このラジオドラマの「。。。ルソン、アンナン、カンボジア、はるかオランダ、エスパニア。。。。」という主題歌が好きで、今でも歌えますね。

このことから、外国があるということが分かって、海外で働きたいという夢を抱き始めました。

ー 学生時代はどのように過ごしましたか?

何故か公立高校への受験に失敗して、私立のミッションスクールに通い始めました。この高校では、アメリカ人が英語を教えていて、当時の他の高校に比べて英語教育に熱心な学校でした。その時、私が海外で働くために、神様が私に「英語を勉強しなさい」と言って、私をこの学校に行かせたのではないかと思いました。そこで、ESSという英語クラブに入部し、一生懸命英会話を勉強し、外国人と英語で会話できるようになりました。

ー 1960年代の日本では、珍しい進路だったのではないでしょうか?

そうですね。大学進学する人は、2割程度だったのではないでしょうか。1960年代は、大学進学率が伸びている時期で、大学に通えば将来に役立つと思い、長崎大学へ進学しました。福岡の実家から出たかったのですが、貧しかったため、関東や関西の大学には進学せず、母親の妹に当たるおばさんが長崎に住んでいるということで、長崎大学経済学部に進学しました。

3年生の時に、長崎県にある大学のESSの連合である「長崎県大学英語連盟」で委員長を務め、その活動ではケネディのスピーチをたくさん暗唱して練習していました。そのとき彼が発言していた「ニューフロンティア」は、自分にとってどこにあるのだろう、と疑問を持ったんです。国際経済のゼミに入り、ケネディの言う「ニューフロンティア」が開発途上国だと分かり、興味が湧き、経済発展論を学びました。

このESSの活動を通じて、リーダーシップとPlan-Do-Seeという事業のマネジメントを学習したと思います。

大学時代のテキストや国際経済のゼミの内容がきっかけで、次第に「国際機関で働くこと」が「外国に行くこと」の次の夢になりました。

ー 大学卒業後に、国際機関での就職を考えたのですか?

国際機関は夢であり、どうしたら働けるのかもわからなかったので、就職の選択肢として貿易か途上国関係に携われる職業を考えました。貿易を通じて、一次産品や二次産品を輸出入することで、南北関係の実務に携わろうと、イギリスの船会社に就職しました。

3年目の時に大学のゼミの先生から紹介があって、(社)海外コンサルティング企業協会という、開発コンサルタントの協会に転職することになりました。この協会の山口専務理事が、「日本人は英語が下手だから、外国人と対等に仕事ができるようになるためには、専門分野について、自由に英語で読み、書き、話すことが出来る能力を身に付けないと駄目だ。日本の大学ではこの能力は身につかないので、留学しなさい」と勧められました。

自分も開発エコノミストになるには、専門知識が不十分だということを強く認識していたので、サセックス大学に留学することにしました。サセックス大学留学中は、人生で一番勉強したと思います。この留学での「開発経済学」の勉強経験なくして、今日の自分はなかったと思います。自分の専門的知識のベースと英語で考える力、書く力がこの時に身についたと思います。

 

閉鎖的な国・ミャンマーへ飛び立つ

ー 現在、NGO団体MJETはミャンマーを活動対象地とされていますが、ミャンマーとはどのような縁があったのでしょうか?

1975年に、国際協力事業団(2003 年に国際協力機構と名称変更)に入団し、JICAミャンマー事務所長としてミャンマーに駐在したことがきっかけですね。当時のミャンマーは、周辺のタイやマレーシアとは違って、社会主義国で閉鎖的な国でした。技術協力も少なく、みんなミャンマーに行くことをためらっていたので、私が行こう、と決断しました。自分の赴任中に何か変化が起きるのではないかと、密かに期待して行きました。

 

ー JICA事務所長として、どのような活動をされていたのですか?

JICA事務所長として赴任した翌年の1988年には、大きな騒乱とクーデターが起こりました。クーデターが起きると、日本政府が相手国政府を認知するまで外交が停止するため、全ての援助が停止しました。このため、オフィスにいっても何もすることがない状況が続きました。しかし半年ほど経ったころ、昭和天皇が亡くなったことを機に、ミャンマー政府が天皇陛下の葬儀への参加を希望し、外交関係が再会しました。その後、日本は実施中の技術協力事業のみを再開しても良いことになりました。

ー 活動が停止されていた期間はJICA事務所長として何をされていましたか?

活動が停止したので、この期間にローカルスタッフの研修を行いました。

UNDP, UNICEF, WHO等の複数の援助機関と協力して「Project Management」というテーマで研修を行いました。この研修での成果を基に、帰国後に新たな国際援助の手法としてPCM手法を開発してJICAに提案しました。

大騒動の翌年には、日本大使館、日本人学校、商社で勤める日本人で構成された日本人会で文化班長を担当していました。

文化班の活動として、ミャンマーの小乗仏教について、学習しようと、ある僧院の院長さんに講演をしてもらったところ、帰り際に、その院長が「クーデターにより大学が閉鎖され、学生はすることがなくなっている。自分は英語で仏教を教えているが、学生が日本語を勉強したがっているので、僧院で日本語を教えてくれる日本人を紹介して欲しい」との依頼を受けました。ミャンマーは親日国であり、また、当時は政府機関と国営企業の他には仕事がなく、働き口として将来日系企業に就職を希望している学生が多かったのです。そこで、私は毎週土曜日と日曜日に、僧院で日本語を教え始めました。始めたころは70人近くいました。低い机で勉強する環境ながらも、みんなとても熱心でしたね。

ミャンマーの僧院で日本語を教える藤村氏

 

半年経つと、JICAの帰国命令が出たため、日本人学校の先生の奥様に日本語教室の継続をお願いしました。その後、生徒は増え続け、1990年中ごろ~2000年には、1000人ほど生徒がいました。現在、その僧院の日本語クラス卒業生は5000人以上に達しており、通訳やガイド等の分野で活躍しています。

 

参加型エコツーリズムという、人に寄り添ったアイディアで支援するNGO団体設立

 

ー 現在会長を務めているNGO団体MJET(ミャンマー・日本・エコツーリズム)はどのような経緯で設立されたのでしょうか?

UNDPを62歳で定年退職した後、残りの人生で何をするべきか考えました。そこでJICA事務所長時代にミャンマーに対して満足のいく協力をできなかったので、ミャンマーで何かをしようと思いました。

ミャンマーでは、2003年に、アウンサンスーチー氏が軟禁され、先進諸国からの経済制裁強化により日本企業は引き揚げてしまい、ミャンマー人学生の日本語への関心が薄くなっていました。

JICA事務所長時代に始めた日本語教室では受講生が500人以下に急速に減少しました。日本語学習者を増やすためには、日本語を使う仕事を作る必要がありました。そこで2007年にニーズ調査を行い、「観光分野」が有望だとわかりました。また、バガンでは観光客は多かったものの、滞在期間が2日のみと短く、ホテル代くらいしか得られませんでしたので、観光産業としては貧弱なものでした。外貨をもっとミャンマーに落とす仕組みが必要と思い、長期間滞在の観光プランを考えました。

そこで、2007年にNGO団体MJET(ミャンマー日本・エコツーリズム)を設立しました。

ー MJETではどのような活動をされているのですか?

日本から大学生と社会人を連れてバガンの村を訪問して、村人と一緒に植林活動をする「植林ツアー」をしています。各村に緑化委員会を組織してもらい、村人に植林活動に参加してもらいます。バガンに4~5日は滞在するので、植林する他に、夜には演芸会のような交流会を開催して大変喜ばれています。普通の観光客は現地の人達が歌や踊りを披露するのですが、私たちの場合には、私たちも歌、踊り、手品等を披露するので、村人は大変喜び、楽しんでくれます。

ミャンマーの子供たちと植林する様子

一つの村で植林するための村の共有地面積は2~3ヘクタールで、限りがあるため、2年ごとに次の村へと移動しています。しかし、村人からは、「2年だけではなくいつまでも友好関係を続けてほしい」という声があったため、教育の分野で新しいプロジェクトを始めました。

ミャンマーの小学校では、本だけで理科教育を行っていました。ミャンマー政府も、先生が話したことを暗唱する一方向の教育ではなく、生徒中心の参加型の授業内容を志していたため、その実現のために協力しようと思いました。そこでMJET学生部の学生が、小学校で、理科の実験を含む環境教育を開始しました。この結果、生徒たちは、寄付された実験器具を使用し、自分で実際に実験して、水の性質の変化などを確認することができたので、理科の授業に対してより意欲的になりました。

また、小学生と中学生が参加する運動会を行ったところ大好評で、今後も継続したいと思っています。

 

ー ミャンマーにおける国際協力活動で踏まえるべきことは何ですか?

国際協力には大きく分けて、高所得国、中所得国、低所得国の三つに分類されます。ミャンマーは低所得国に属するため、インフラや物流が重要です。

さらに、他国に比べて、まだ国の統治が「国家統一の途上にある」ことを認識しておくことが重要な要素です。イギリスの植民地時代に、中間管理職・労働者として流入したインド人や中国人が多く、イスラム教徒と仏教徒との対立や、また植民地の統治に関わった少数民族と虐げられたビルマ族との関係など、歴史的な対立関係が存在し、まだ不安定な状況です。

そのため、ミャンマーにいるカチン族やカレン族など135の少数民族と人口の約7割を占めるビルマ族が、徐々に平和的に連邦を形成して統一されるように配慮しなければなりません。

今のところ、ビルマ族が中心に住むヤンゴンとマンダレーが急速に発展していますが、少数民族が多く住む地方の開発を進めなければ、少数民族にとって開発の効果・便益が分かりません。ヤンゴンなど中心部だけが豊かになり、評価される一方で、電気のない山奥で薪拾いと水汲みに追われて生活する人を見ると、本当に国全体が開発されているのかと疑問を抱いてしまいます。そのため、地方の開発が、ミャンマーにとって大切になっています。

 

ー ミャンマー人の他に、現在国際協力をする日本の団体や日本人学生に対しても支援を行なっているそうですが、どのようなことをされていますか?

国際開発研究者協会(SRID)という任意団体で活動しています。SRIDのキャリア開発事業で、国際協力を行う学生団体や国際開発協力分野で活躍することを希望している学生や社会人に対して能力研修やカウンセリングなどをしています。

SRIDでは私のほかにも、金融や教育など幅広い経験をもつ開発分野の専門家がアドバイザーをしています。

 

「人のために、社会のために」を大切に。

国際協力の支援では、モノだけではなく人間らしい生活をするための知識・スキルも大切です。みなさんが大人になって、子供が自立できるようにどう育てるか考えることと同じように、支援先の人々を同じ人間として捉え、彼らが自立して人間らしい生活ができるように協力することを考えて欲しいです。

途上国で働く時、自分の仕事がどれだけ現地の人に役立っているかを考えることが大切だと思います。国際協力に限らず、企業も、人の役に立つものだけが生き残り続けます。国際協力では、人の役に立っていることが目に見える成果となり、そのことが両者の喜びになります。

国際機関で働くという夢がかなって、1987年から8年間、国連開発計画(UNDP)で働くことが出来ました。

仕事は開発途上国同士が協力するという「南南協力」の推進でした。約50のプロジェクトの財政支援を行いましたが、その代表的な成功事例が、「ネリカ米の研究開発」でした。西アフリカとアジアのイネを交配して、乾燥に強く、収穫量が西アフリカ種の3倍以上に増える「ネリカ米」の研究開発を支援し、普及に努めました。「ネリカ米」を植えて収穫が増えたと喜んでいる西アフリカの農民の声を聞いた時は、すごく嬉しかったですね。

 

また、日本人が国際協力分野で働くにあたって、英語力を含めて、コミュニケーション能力向上のための訓練が課題です。現地では、やはり英語は必須です。さらに現地語の習得ができると関係構築の面で大いに役立ちます。英語は真面目に努力して習得するしかないですね。

さらに、日本人は、ディスカッションの場面で感情的になり、喧嘩腰になる傾向がありますね。意見に対して反論すると、人格まで否定しているかのように捉えられることもあります。もっとディスカッションをして、理解できていない点や賛成できない理由などをはっきり言えるようなスキルを身に付ける必要があると思います。

国際協力を実践している学生団体の多くは、日本人のみで構成されているようです。日本人だけで英語で会話するのは、恥ずかしくなってしまうので、留学生にも参加してもらい、様々な国の同世代の人達と議論する機会を多く作り、一緒に考え、一緒に行動することを学生時代に経験して欲しいです。その努力と経験が自分の才能を磨くことになり、自信がつくと思います。

 

《編集後記》

藤村氏は、今の学生や若者に対して、自分中心にならず、社会とどう関わっているかを意識してほしいと熱く語っていました。国際協力では、まず、自分自身が「人のため」にどう関われるかを考えていくことが大切だと思いました。今は、海外へのアクセスもしやすく、情報も得やすい時代だからこそ、自分が社会の中でどう生きるか考える時間が必要ではないでしょうか?