“若いうちから海外に飛び込む”、今となっては頻繁に聞く言葉ではあるが、それを20年も前に実践した日本人がいる。佐藤氏がベトナムへ飛び込んだ90年代初頭、ベトナムは世界に対して市場を開いて間もない時代であった。ベトナム生活20年、佐藤氏は何を想い、動き続けてきたのだろうか。

《佐藤栄一氏|プロフィール》
大学卒業後の1993年、ベトナムでルビーを採掘する合弁会社に就職。24歳の時にベトナムに渡り、以来ベトナム滞在歴20年。現在はハノイにスタールビー専門店「STAR ROTUS」を営む。(※スタールビー…表面に光を当てたときに星形に線形が現れる、稀少なルビー)

 

「あの道の向こうには何があるんだろう?」
新卒で海外就職を選んだ理由、海外にどっぷり浸かることに魅了された学生時代。


-なぜ、海外で働くことを選んだのですか。

昔から外国に憧れを持っていました。当時、旅行会社に内定をもらっていたのですが、やはりそこでは日本をベースにした仕事になるのではないかという思いがありました。そんなときに、叔父から「ベトナムでルビーが見つかった!現地に一緒に採掘に行かないか?」という話をもらったんです。どうせ行くなら、どっぷりその国に浸かりたかった。

 

-「海外で働きたい!」という好奇心は、どんな体験から生まれたのですか。

もうこれは本能。子どもの頃から、知らない道があったら行かずにはいられないという子どもだったみたいで。
大学2年の終わりに、休学して台湾に1年間留学もしました。第二外国語で中国語を学んでいた縁で、大学1年の夏に台湾に行ったんです。そこで驚いたのは、人との出会いがたくさんあったこと。会う人会う人がすごく親切で、言葉もできないのに現地の人の家でご飯をごちそうになったことも(笑)。友だちもできて、台湾という国にはまってしまって。卒論まで台湾をテーマに書いちゃいました。

 

-ベトナムに来てからはどのように仕事を始めましたか。

卒業して、まずはタイのバンコクで半年間宝石の勉強をしてから、ベトナムに向かいました。それが1993年。まずは採掘が目的で、とにかくルビーの鉱山に行って買い付けることから始めました。当初は、勉強したとはいえ実際に石を目の前にすると、どの石も同じに見え、価値のつけ方も全くわからない状態。見様見まねで朝から晩まで石を見て、場数を踏むことで慣れていきました。

自分が買い付けした石を初めてお客様が買ってくれたときはすごく感動的でしたね。段々と慣れてきた頃には、お客さんが求めているものが見えてきて、石を見たとき「この石はこんなお客さんに売りたい」っていうイメージがぱっと浮かんでくることもあります。

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「もう、人付き合いに国境はない。」
海外事業で直面した困難と、文化を超えた相互コミュニケーション


-そうして始まったベトナムでの宝石業ですが、困難はありましたか。

実は、ベトナムでのルビーの採掘に関しては既に中国系の企業が利権を握っていること、タイなどの隣国の進出もあり、1年ほど経った頃に、採掘だけで仕事をしていくのは難しいことに気づきました。

そこで、方向転換をすることになり、ベトナム人の手先の器用さを活かして、ルビーの加工の事業を始めました。そのために、16歳くらいの経験を持たない若者たちを地方から集めて、宝石の加工を教えて職人に育てる。いわば、宝石の専門学校を作ったんです。そこに宿舎も作って、みんなで寝食を共にする。僕も同じように、ベトナム人の職人たちと一緒に生活をしていました。

当時僕は24歳。兄でもあり親でもあるような立場で、夜は宿舎で一緒にテレビ見たり、水しか出ないようなシャワーを一緒に浴びたり、サッカーをしたり……。まさにどっぷり現地の人と関わる生活をしていましたね。そんな生活が10年間続きました。当初ベトナム語は全く話せなかったのですが、ベトナム人と一緒に生活をして、覚えていきました。もちろん辛いこともあったけど、楽しいこと、毎日がとにかく刺激的でした。

 

-そうしたベトナムにどっぷり浸かる生活の中で、一番印象的だった経験は何ですか。

8年目の時に、すごく可愛がっていた弟分の職人と大喧嘩をしたことがある。きっかけは些細なことでした。ちょっと気になったところを「それは直したほうが良い」と注意した。そうしたら、その子は「あなたは日本人だろ。ここはベトナムだから、関係ない」と。それで、ぷちっと何かが切れてしまって。私の心の中で、今までお前のことをベトナム人だと思って付き合ってきたことはなかった、弟や家族みたいなつもりで付き合ってきた、思ってました。

それが「なんで外国人だ日本人だって言うんだ!」という感情が溢れて、気づけば取っ組み合いの大喧嘩をしていました。こっちは同じ人間同士としての付き合いをしていたのに、相手はそうじゃなかったことがショックでした。当時は若かったので感情が収まらず、仲裁に入った仲間に両手を押さえられながらも、口は使えたので、文字通り思い切り噛みついていました(笑)。

「日本に帰れ」とまで言われたんですよ。「もう帰ってしまおうかな」と思いました。でもやっぱり悔しくて。そうして1か月、2か月くらい膠着状態が続いたあとに、僕の誕生日に相手が頭を下げてきた。そのときには、「あ、思いが通じたんだ」と感じましたね。

 

-普段から相手を『ベトナム人』『日本人』と思っていないのですか?

思ってないです、全く。相手には同じ対等の人間として、向き合う。それはベトナム人だけじゃないですよね。日本人に対しても。付き合う人を国籍で区別しない。対人関係において『国境がなくなった』という実感があります。ベトナムでの20年の生活でそういう感覚になったのかもしれないですね。

「ハノイもベトナム人も日本人も、捨てたもんじゃない」
ベトナムで暮らすこと、人とつながること。


-ハノイで20年暮らしてみて、変わったところ、変わらないところはありますか。

ハノイはこの20年間で大きく変わりましたね。特にここ5年間の変化は大きい。一昔前は、「生きるのに必死」といった雰囲気でしたが、最近はベトナムも、ものが増えて豊かになってきました。それと共に人々のコミュニケーションの仕方が大きく変わった気がします。35歳よりも上の世代では、「情に弱くて人間好き」といった人が多いですが、若い世代はそうでもない。日本でも同様のことが言われますが、メール一本でコミュニケーションを済ませてしまったり、何か大変なことがあっても「負けてたまるか!」という気持ちが薄く感じられたりすることも。

また、面白いことに、最近ハノイではレトロなものが人気なんです。あえて昔の共産党時代の雰囲気に仕立てたカフェやBarなどが、「アート」として若者に好まれている。それもまた、時代の移り変わりでしょうか。

一方、変わらないところとして、ハノイは「来るもの拒んで去るものを追う」とよく言われます。仲良くなった人間にはすごく良くしてくれるところがあって、希薄になったとはいえ、未だに近所づきあいが色濃く残っている。それはベトナム人同士でも、ここで暮らす日本人どうしでも。お店もたくさんの方に支えられてここまできました。お客様がお客様を紹介してくれたり、お店に提案をしてくれたりする。『佐藤さんのお店』と言われるだけではなくて、お客様と共にお店づくりができていることが一番嬉しいことですね。

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-ベトナムでお仕事をされて20年。冒険心を忘れず、苦境を乗り越え続けた佐藤さんはとても決断力があると感じました。最後に、佐藤さんの人生の決断での基準・大切にしたいことを教えてください。

最終的にはほんと直観です。直観というか、「これをやって失敗しても後悔が残らない」と思えるかどうか。ベトナムに行くか、日本で就職するか。帰国するか、もう少しベトナムで働くか。悩んだこともたくさんありますが、どのみち選ばなければいけないわけじゃないですか。

自分の思いの強さに従って選んだ未来で失敗しても、悔いは残らない。失敗は実力不足。それはしょうがないと認めていけば良い。実際、自分のお店を持つという大変な選択をして、予想以上に辛い時もありますが、お店に集ってくれるお客様、そして人生の大切なひとときを費やしてくれる従業員のためにも、自分が中途半端な気持ちでいられない。そんな思いで日々積み重ねています。

(文・インタビュアー:杉江美祥)