2017.04.10

「日本でサラリーマンとして働いたのち、その経験を活かしてASEANで起業」そのような経歴の方を探し求め、今回はMates Global Communications (メイツ グローバル コミュニケーションズ)の柳内 学氏にお話を伺った。カンボジアで起業し成功に至るまで、まさに波乱万丈のキャリアを歩まれており、それだけに人生観という点でも多くのことを教えていただいた。その仕事人生を時系列に沿ってご覧いただきたい。

<プロフィール|柳内 学氏>
株式会社ワシントン、ベンチャー・リンクグループ(株式会社アイリンク社)伊藤忠商事社内ベンチャー(リーティルブランディング株式会社)、タヤマ学校(株式会社I&M)、を経てタヤマ学校カンボジア校に赴任2009年、教え子の20名・プノンペン大学日本語学校の第1期生と共にカンボジア現地で起業。2009年よりMATES Global Communications Co.,Ltd 代表取締役に就任(カンボジア)、その後いくつもの事業に参画。

「この経験が一番役に立った」営業職時代

―本日はよろしくお願いします。まずどのような学生時代を送られたのでしょうか?

大学では経済学を勉強していましたが、あまり大学には行かず、六本木でのバーテンダーのアルバイトに打ち込んでいました (笑) 。ただ広告代理店出身の教授が開催するマーケティング関連のゼミが3、4年次にあり、そのゼミだけは熱心に受講していました。

進路ですが、ゼミの教授が有名私立大学の大学院に呼ばれることとなり、私も教授に推薦されて同じ大学院に進学することが決まりかけました。しかし経済的な理由で断念せざるを得ず、悶々としつつも結局は就職を選びました。

 

―大きなチャンスを諦めざるを得ず、残念な気持ちも大きかったと推察します。就職後についても聞かせてください。

まず就職したのがリゾート・ゴルフなどの会員券を販売する会社です。

その会社では営業のイロハを身につけることができました。苦労を重ねて何件か成約させることができ、その際に「あなたから買いたい」と言ってもらう―1人の人間として気に入られ、信用されることがビジネスをするうえで大事だということを学びました。

ただ心から顧客に勧められるような商品を担当できず、同期10名も、早々と退職して私ひとりになってしまい (笑)、もやもやした感情があって半年で転職しました。

次に選んだのがフランチャイズビジネスを支援する事業会社です。好景気の中のちに一部上場も果たしたその事業会社で、営業・販売に従事して充実した日々を送っていました。しかし数字という結果を残さなくてはいけない仕事ゆえ上司からのプレッシャーもあり、環境を変えようと再度の転職に踏み切りました。今思えば、軸がブレブレで決して成績優秀なセールスマンではありませんでしたね。

 

―営業は大変ながら得るものも大きいんですね。

カンボジアで事業をしていて、一番役に立ったのは営業の経験でした。目の前のお客様を幸せにすることで、それが巡り巡ってさらなる成約に繋がったり仕事をもらえたりします。言わば「エンドユーザーをエンドレスにする」、とにかく相手を大切にすることで次に繋げていく意識を持って仕事をしています。

営業時代について語る柳内氏

一転して商社マンへ!華の伊藤忠グループ時代

―次はどういった会社に入られたのですか?

次に入ったのが私にとって運命の会社である、伊藤忠グループです。同社では社内で事業案を募り、それに応じて事業会社を立ち上げるプロジェクトがありました。私はその事業会社の求人をたまたま見つけ、一流企業でこれまでの経験を活かしたいと思い、応募したのです。

その求人は約150倍の倍率があり、一流大学出身でもなく伊藤忠グループに先輩も親戚もいない私は、正攻法では内定は難しいと考え、同社への想いを手紙に綴って送りました (笑)。すると、なんと人事の方から電話をいただき、面接を経て入社が決まりました。

同社では社会人・ビジネスマンとしての心構え・組織や会社の看板の大切さを教えてもらいました。ある意味では、この会社で初めて社会人としての本当のスタートを切ったようにも思います。伊藤忠グループの一員として、外苑の伊藤忠本社ビル内で仕事ができたことは一生の財産です。本当にたくさんのことを学ばせてもらいました。

出来損ないの私を厳しく優しく育ててくれた、当時の社長や仲間達にも心から感謝しています。尊敬できる上司や仲間と働けるのがどれだけ恵まれていることなのか、経営者になって身に沁みて分かりました。

 

―なんとも印象深い就活談ですね…。今後の参考にさせていただきます。

入社後は韓国で麦飯石(サウナで使われる)を買い付ける海外プロジェクト、結婚式場ビジネスを立ち上げた新進気鋭のベンチャー企業との合同プロジェクト、総合アミューズメント企業の事業パートナー選定、寿司やラーメンチェーンなどの事業多角化支援等を担当しました。どれも伊藤忠というブランドがあってこその仕事であり、誇りをもってやりがいのある仕事ができ、多少の成果も出せました。

伊藤忠グループの手帳。今もこの手帳を使い続けている

―逆に伊藤忠グループで大変だったことは何でしょうか?

知らないことがあまりにも多かったことです。入社して最初の会議は専門用語も多く、レベルが高すぎて言っていることが全くわかりませんでした (笑) 。これまで様々な経験を私になりに積んできたつもりでしたが、まだまだだということに気付かされ、それを前向きなエネルギーに転化できました。

 

―ソクラテスの「無知の知」という言葉を思い出しました。

商社マン時代はもちろん多くの失敗もしましたし、良いことばかりではありませんでした。ただ今振り返ってみると、それら全てが糧となって今の私を形成しているわけですから、失敗も成功も全てを受け入れ、肯定して生きていくことが大切だと思います。失敗が人生という予測不能な物語を、より面白いものにしてくれます。

辛くとも確かな “今” を大切にして、己を磨き、人の役に立つという意識が重要です。もちろん笑顔を忘れずに楽しくですよ (笑) 。自分自身に起きる事は全て必然であるという気持ちを常に持ち続けることはとても大切ですよね。

 

―身につまされます。その伊藤忠グループから再度の転職をなさった経緯についてもお聞かせください。

転職先は研修などを主要事業とする人材会社です。たまたま伊藤忠グループの社員として同社の研修に参加し、その研修が楽しくてハマってしまったのがきっかけです。

毎月のように会社にお願いして参加するうち、同社の学校の校長先生から「ウチに修行に来なよ」とお声かけをいただきました。校長先生は会社を上場させ、ご自身が退任した後も続いていくパブリックな企業にしたいとお考えだったんです。その上場させるという大仕事を私に託そうとしたんです。

心が動いた私はそうした事情を会社に説明し、当初は半出向という形でその学校に出向き、上場準備室という大変重みのあるポジションをいただいて上場の任にあたりました。

しかし3年経っても会社が上場せず、そのために伊藤忠グループにも戻る道が無くなってしまったんです。もちろん自分の力不足が理由です。さらにこの事がきっかけで心の糸がプツンと切れてしまい、多くの方々に心配やご迷惑をおかけすることになるのですが…。最終的には社内の人事異動という形でカンボジアに移ることとなり、ここからやっとカンボジア編が始まります。

実は私の場合は前向きに高い志を持ってカンボジアに来たというよりは、偶然に(今となっては必然ですが)流れ着いたといった感じでしたね。

 

―なるほど…。なんとも怒涛の日本時代でしたね。

「先生はうそつきだ」生徒たちに職を与えるため、起業を決意

起業時のお写真、全員が柳内氏の教え子にあたる

―カンボジアに移ってから起業に至るまでの経緯についてもお願いします。

カンボジアでは授業料など完全無料の日本語学校(タヤマビジネススクール)の立ち上げに関わりました。カンボジアには語学堪能な人が多く、クメール語と英語はほぼ全員でき、さらに日本語・中国語・韓国語のどれか一つができる人がかなりいます。

ただそれではダメで、他言語の学習を辞めて一つの言語を徹底して勉強した方が就職に有利だというのが考えでした。私は「日本語を完璧にしたら就職させてやる」と全学生の前で啖呵を切りました。

しかし2年経って、卒業して就職できたのはわずか20~30人ほどでした。当時は日系企業はあまり進出しておらず、名門プノンペン大学日本語学科の卒業生もほとんど就職できない有様でした。

 

―トップ層の学生ですら就職が難しかったんですね…。

卒業式の場で、私は生徒から一つ言いたいことがあると言われました。お礼の言葉を期待していた私はこういわれて衝撃を受けたんです。

「先生は噓つきだ。先生を信じて日本語の勉強を続けたのに、結局就職なんてできなかった。」

彼らはまさしく “生きるために” 語学を学んでいたんです。日本人は英語ができなくても就職できますが、カンボジアは産業がないため、他言語が話せないと就職できません。当時の私はそれがわかっていませんでした。

もちろん学ぶことは大事だが、プラスで働く場所がないと彼らに寄り添って国を良くすることにならない、それを痛感したんです。だったら就職できなかった学生をみんな集めて起業しよう、仕事場を作ってやろうと思いました。

メイツ社のロゴ。ANA、警察庁などのロゴを担当した石川 明氏より寄贈

―起業をすることで生徒に職を提供したいというのが先にあったのですね。では事業内容はどのように決めたのでしょうか。

何の事業を始めるか悩んでいたときに、尊敬しているリクルート社出身の上司に相談し、リクルート社の起業家精神とともに、情報誌「ホットペッパー」について色々と教わったんです。それをヒントに、クメール語情報誌「Chuga-pon ちゅがぽん」の創刊を決めました。

考えてみればカンボジアにはNyoNyumなど日本人向けの情報誌はありましたが、カンボジア人向けの情報誌は当時ありませんでした。この国の主役はカンボジア人なのにも関わらずです。日本の情報やカンボジアのレストランを紹介する雑誌があればこの国の役に立てる、そう思いました。

社員をデザイン学校に通わせるなどして、本当にゼロからのスタートでした。 また、自己資金もそれほどありませんでしたので、恩師から出資もいただき何とか起業することができました。たくさんの方からのアドバイスやご支援をいただくことができて、私は本当に恵まれていたと思いますね。

「Chuga-pon ちゅがぽん」

参考:カンボジアを代表する生活情報誌「NyoNyum」創刊者 ―「全ては“伝えたい” から繋がっている」 

情報誌→トゥクトゥク→ラーメン店!?その事業とは

―創刊時のお話を聞かせてください。

2010年1月が創刊で、ホットペッパー創刊時のように徹底的に宣伝して一番を取るというのが計画でした。イベントの予算はなんと1400万円でした(ちなみに資本金は2000万円)。

発売日まではテレビ、新聞、ラジオなどありとあらゆるメディアをジャックして毎日カウントダウン方式でコマーシャルを行いました。創刊の当日はDJやモデルやダンサーを呼んでプノンペン市内の大型ショッピングセンターで大規模な配布イベントも行い、18時ちょうどになると街中のデジタルサイネージから「Chuga-pon本日発売!」と大音響で告知を行いました。

イベントの翌日には、問い合わせの電話が鳴りやまない様を想像し、疲労困憊のまま早朝から全員で出社し入電を待っていました。ところが問い合わせの電話はわずか一本でした。創業4ヶ月目で早くも資本金の70%を費やした大創刊イベントは大・大・大失敗に終わったのです。

 

―それは辛いですね…。なぜカンボジア人には刺さらなかったのでしょうか?

カンボジア人に受け入れられるコンテンツではなかったからだと思います。創刊時のChuga-ponはページにクーポンが印刷されていて、切り取ればクーポンとして使えるようになっていました。ただ当時のカンボジア人からしてみれば全く意味がわからなかったのでしょう。そのような文化が無かったのですから。

日本で人気だからといってカンボジアで通用するとは限らないし、それは大規模なプロモーションをやったところで変わりません。私が最初にすべきだったのは、カンボジア人が何を求めているかを彼らからきちんとヒアリングし、研究することだったのです。

日本の価値観を強引に押し付けるようなやり方は些か傲慢であったとも思います。日本の常識は他国では常識ではないということも理解しておかなければいけません。

 

―その後はトゥクトゥク管理事業を展開されたようですが、なぜトゥクトゥクに目をつけたのでしょう?

街を歩いていて、トゥクトゥクがあるお店に入り、ドライバーが看板料をもらって出てくるのを偶然目にしたのがきっかけです。トゥクトゥクは店ごとに宣伝費をもらっているんですね。

トゥクトゥクはメジャーな公共交通であり、後部には看板がついている

ところが路地を曲がると看板を外し、別の看板に取り換えていたんです。そして別のお店に入り、また看板料をもらう。つまり不正をして看板料を二重、三重にもらっていたんです。

調べてみると多くのトゥクトゥクが同じことをしているとわかりました。これでは広告宣伝にならず、現に日系企業もそうした不正に悩まされていると聞きました。だったら「管理」をすればビジネスになる、そう確信しました。

勝手に看板を外したり、年末には勝手に田舎に帰ったり、看板をつけたままトゥクトゥクを売り払ってしまったり…。管理事業はとても大変でしたが、6年間続けることでノウハウも蓄積されてうまくいくようになりました。

 

―失敗を教訓にカンボジアに合ったビジネスを築いたのですね。その後はタイ・バンコクでラーメン店の経営もなさっていますが、なぜ急にタイでラーメンなのでしょうか?

前述の大失敗でカンボジアの事業が資金的に苦しかった時期に、知人がバンコクで展開していたお店を帰国に際して譲ってくれたのが顛末です。毎月タイでマネジメントを行い、得た利益をカンボジアに持って帰って運転資金に充てていました。まさしく自転車操業でした (笑) 。

そのうちChuga-pon、トゥクトゥク管理事業ともに軌道に乗り、Chuga-pon創刊からちょうど1年が経った2011年1月には一万部から二万部へ増刷も果たしました。今後も「Chuga-ponを見たら日本がすべてわかる!」という雑誌を目指し、日本を好きになるカンボジア人を一人でも増やしていきたいです。

以降はコンサルティング事業・人材サービス事業も展開し、イオンモールカンボジアの販促イベント運営も任せていただきました。最近は車・オフィスのレンタル事業も行っています。

アジア経営者連合会から3名のみに与えられる、優秀経営者賞のトロフィー

 

―多岐に渡る事業を成功させる秘訣のようなものはありますか?

とにかく続けることです。そして何でもやってみる。最初から成功が約束されていることなんてこの世の中にはありません。

例えばですが、生まれたばかりの赤ちゃんは何でも口に入れて食べようとしますよね。口に入れてみて食べられるかどうか、おいしいかどうかを判断します。当然最初は失敗して泣き出したりします。でも次第にそれが経験として蓄積されて、少しずつ正しい判断ができるようになり、自然に成長していきます。

事業も基本的に同じです。そうやって右往左往行しているうちに人脈も自然に広がり、信頼され、仕事もいただいて次第にできることが増えていきます。

ちなみに目標やビジョンに向かっていく経営者は多そうですが、私は目標は立てない方がいいと思っています。

 

―ありがとうございます。目標を立てないのはなぜでしょうか。

世の中が変わるからです。10年前に誰もスマートフォンを想像しなかったように、先のことは誰もわかりません。そうした状況で目標を立てても、その目標設定が間違っていれば修正がききません。誤解を恐れずに言えば、「夢は叶わないもの」なんです。

 

―それはどのような意味でしょうか!?

要するに、当初の理想や目標の通りに事は運ばないということです。

小学校の卒業アルバムに書いた「夢」通りの職業に就けるのはわずか数パーセントという話があります。ですから、例えば私が「イチロー選手のようになる!」という夢を追ってもそれは到底叶わないでしょう。信じてイメージして潜在意識に働きかけ行動し、これからの人生全てをかけて努力してもそれはきっと徒労に終わります。もう一度言います、「夢は叶わない」んです。国語辞典で「夢」という言葉を引いてみてください。はかないもの、たよりにならないもの、かなわないものとありますよ (笑) 。

「目標」を含めた既成概念に囚われず、耐震構造のような柔軟な感性を持って、目の前の出来事に対して真摯に誠意を持って対処する、相手が何を求めているか向き合う先に実現したいことが見えてくるんだと思います。

 

―ふーむ…。では目標とは別に、仕事をするうえで大事にしていることは何ですか?

感謝の気持ちを忘れずに人の役に立つ事を自分の喜びにして毎日を楽しく生きること!ですかね。こうした毎日を積み重ねれば、その先に人それぞれの成功(幸せを実感する)ことが出来ると思います。

その視線は教育へ―カンボジアの役に立つという想い

―今後の展望について聞かせてください。

孤児院支援事業にも力を入れています。クライアントからいただいた広告費の一部を孤児院に寄付するプロジェクトがその始まりで、今は有志でNGOを立ち上げ、その代表理事を務めております。

支援先の孤児院にて。中央が柳内氏。向かって左がNGO理事でお笑いタレントのドロンズ石本たけし氏。右が日本のラーメン業界のカリスマ経営者で同NGO代表の奥村宗弘氏

またカンボジアの公立校内の建物を使って、研修センターのような日本語学校を建てようとしています。

さらには孤児院の児童をこの学校で引き受け、日本の学校に奨学金付きで留学してもらい、日本で就労もできるような仕組みを作ろうとしています。そのために日本の大学・専門学校・企業などに働きかけをしている最中です。

まもなく開校される日本語学校の校舎。中央が柳内氏

―再び学校教育に携わる、その根幹にある信念は何でしょうか?

教育を通してカンボジアに貢献したいという考えです。カンボジアでは教育に十分な予算がいかず、その状況はなかなか変わらないと感じます。また教育の現場も同様に腐敗しており、教師が生徒から賄賂を得ることもあるようです。

日本語を教えることはもちろん、拝金主義的な価値観に替えてカンボジアの歴史や日本的な道徳を教える学校を建てることで、教育を変え、カンボジアの社会を良くしていきたいです。歴史教育・道徳教育を行い、愛国心や人のために役に立つ生き方などを生徒と先生が共に学び、高め合えるような学校を作りたいです。

 

―ここまでを総括して一言お願いします。 

我々は日本のパスポートを持っていてほぼすべての国に行けるのですから、その特典を活かしてぜひ海外に出るべきです。日本人はそのことが当たり前過ぎて、その価値にすら気付いていないのではないかと思います。

例えばカンボジア人を日本に連れて行こうと思うとビザ・残高証明・審査などで数か月かかります。アメリカ人でさえもアラブ諸国に行くのは難しいです。海外に出れば日本という環境のありがたさがわかるし、日本の先人が築き上げてきた日本人への信頼・リスペクトもわかります。

特に若い人には日本人・日本国が世界でどれだけ尊敬されているのかを知って欲しいし、誇りを持ってまだ見ぬ広い世界に飛び出し、自分に何が出来るのかを知って欲しいです。さらに願わくば、日本と世界の国々のために、自分自身の能力を存分に発揮して欲しいですね。

参考:世界トップクラス! 信頼度がものスゴく高い日本のパスポート

またカンボジアはマーケットが小さい分、この国が好きで真剣にカンボジアを良くしたいという情熱の持ち主が集まっているので、学生でもぜひ飛び込んでほしいと思っています。

最後になりますが、自身の能力を社会に還元するという視点を持ってもらいたいです。人生は限られているのですから、人のためになるようなことをして有意義な生を全うするのが、各人にとっても幸せなことです。その答えの一つがカンボジアで働くことなのだと思います。

日本のパスポートを手に語る柳内氏

編集後記

本当に波瀾万丈な、何かのドラマになりそうな人生をお送りでなかなか聞けない話を伺えた。

挫折経験を全く隠すことなく語ってくださり、自分が提出した原稿に挫折経験をわざわざ書き足していただいたほどで、自分の人生に対する潔さのようなものも感じた。

インタビュー中も常々他人への感謝を口になさっていたのが非常に印象的で、柳内氏が成功できた理由について示唆してもらったような気がした。