楽しさをキーワードに、「澤村信哉」を演じる私

2017.03.31

今回は「ASEANで働く、その先へ」第5弾です!

これまで、アセナビではASEANで働く方を中心にインタビューをし、ASEANのリアルをお伝えしてきました。この特集ではASEANでのキャリアを積んだ後に日本に戻って活躍している方やASEANで更に活躍している方に焦点を当てています。彼らが、ASEANでどのようなキャリアを積み、現在どのようなことをされているかについて発信していきます!

《プロフィール|澤村信哉氏(さわむら しんや)》
1976年、北海道生まれ千葉育ち、横浜国立大学卒業。1999-2006年はフィリピン、ミンダナオ島にて、2006-2008年はブルガリア共和国ルセ市にて日本語教師として働き、教科書作成や教員育成にも注力。2008年からフィリピンに戻り、児童養護施設ハウスオブジョイの運営に携わる。現在は約20人のこどもたちと一緒に暮しながら、こどもの自立支援や就学支援のためのプロジェクトを手掛けている。特技は20種類以上の楽器演奏と、主たる収入源でもある似顔絵描き。

*ハウスオブジョイFacebook

フィリピンとの出会いと、日本語教育という答え

日本人会学校の子供達

ーまず、なぜフィリピンだったのか教えてください。

親がキリスト教だったので、こどもの頃から日曜は教会に連れて行かれていました。私の住んでいた地域は工業地帯で、不法就労で現場で働くフィリピン人と、歓楽街で働くフィリピン人女性がすごく多かったこともあり、日曜の教会には日本人よりフィリピン人のほうがたくさん集まるくらいでした。

教会というのはこどもの視点からすれば辛気臭いところなんですが、フィリピンの人たちは毎週パーティーを開き、歌って踊ってバスケをして、すごく楽しそうにしていました。ただでさえ田舎の、ヤンキーだらけの町で育っていた私はそれを見て、「なんか世界は楽しそうだ」「こんな田舎にいつまでもいちゃダメだ」と思うようになりました。

それで、影響を受けてギターを始めたかたわら、割と真面目に勉強もして、高校、大学と進学し、大学生のときに念願の海外旅行!として選んだ国は、もちろんフィリピンでした。

 

− 日本語教育を海外でしようと思ったきっかけはなんですか?

大学生のとき、アルバイトで貯めたお金でフィリピンに行くと決めたとき、私は自分の世界を広げてくれたフィリピンという国に恩義のようなものを感じていたので、単なる旅行ではなく「ボランティアツアー」に参加しようと思いました。

知り合いの神父さんが紹介してくれて、フィリピンの田舎の職業訓練校で、生徒たちと一緒にヤギ小屋を作るプロジェクトで。毎日草刈りをし、穴を掘り、柱を立て、フェンスを張る作業をしたんですが、いくらがんばっても日本から来たひ弱な私より、現地で育ってきた若者のほうが作業が断然早いんです。そのときに「ああ、このままじゃ俺は役立たずだな」と思い知りました。

毎日穴を掘りながら、どうすればいいんだろうと考えました。もっと体力をつけて、穴掘りの達人になればいいのか、とも思いましたが、それも違うなと。なぜなら、そこで穴を掘っている若者たちは、その仕事で日当をもらっていたからです。つまり、私がそこで穴掘りを手伝うことによって、1人の若者の仕事を奪うことになると気づいて、「現地の人の仕事を奪わないかたちで、何かフィリピンの人に恩返しができないか」と本気で悩みました。 その答えを探すために、その翌年もフィリピンを訪れ、バックパッカーとして旅しました。NGOの施設を訪ねたり、孤児院に滞在させてもらったり、学校を訪問したりする中で、「日本語を勉強しているこどもたち」に出会ったんです。

日本が100年前、まだ貧しい国だったときに、たくさんの日本人が新天地を求めて海外に出ていき、その子孫が「日系人」として今も世界各地にいるという話はなんとなく知っていましたが、フィリピンのミンダナオ島にそういう人がたくさんいて、しかも、すごく一生懸命日本語を勉強しているということに驚きました。

南米の日系人などと違って、フィリピンの日系人は日本語の継承が行われておらず、3世、4世の世代になると全く日本語が話せません。なぜなら、第二次世界大戦のあと、フィリピン日系人たちは、自分のルーツがバレるとまわりの人に何をされるか分からないような状況だったので、日本語を封印して生活してきたからです。

でも、時代が変わって、今では日系人はその出自を隠す必要はなくなりました。それで、次の世代にはぜひ日本語を学んでほしい、自分が日系人だということに誇りを持ってほしい、という想いをこめて建てられたのが、私の出会った「フィリピン日系人会学校」という学校でした。そこで、日本語教師をしていたのは、日本の工場で2~3年働いた経験があるという女性で、お世辞にも日本語が上手とは言えませんでしたし、教育学などについて学んだことがあるようにも見えませんでした。

将来は小学校教師になろうと思って教育学部にいた私は、そのときに「よし、日本語教師になろう」と決めました。この職種なら、現地の人の仕事を奪わずに、フィリピンに何か、恩返しができるんじゃないかと思ったんです。

 

ー日本で働くという選択肢はなかったんですか?

もちろんありました。日本語教育という業界が低収入なのは大学生の頃にすでに知っていたので、フィリピンに行って日本語教師として働くとしても、まあ、4~5年だろうなあと思っていました。

その後は、その経験を生かして日系社会青年ボランティアに応募して南米で日本語教師をやって、20代の終わりに日本に戻って来て教員採用試験を受ければ「フィリピンの言語も南米の言語もできる小学校教師」として、そういう国から来ている「日本語を母語としない児童・生徒」が多い自治体なら、確実に受かるだろうし、重宝されるだろうし、活躍もできるだろう、と思っていました。実際、転職の誘いを受けたこともあります。

しかし、フィリピンで何年も働いているうちに、「似顔絵描きがあるからお金の心配はいらない」と思うようになり、さらに長くフィリピンで暮らすうちに、「そもそも、将来の不安はお金で解消できるものじゃない」と思うようにもなりました。

将来の不安がないわけじゃありませんが、日本で就職したら将来の不安はなくなるのかといったら、全然そんなわけじゃないので、同じ不安なら、好きなこと、楽しいこと、得意なこと、求められていることをやろう、と思い、結局今でもフィリピンにいます。

 

日本語教師としてのキャリア、そして神父への道?

ー現地採用はどうやって見つけたんですか?

日系人会学校に、直接「ここで働きたい」と話を持ちかけました。旅の兄ちゃんがそんなことを言っても信用してもらえないだろうと思ったので、大学を1年休学し、日系人会学校のあるダバオの町に留学しました。そこで現地語であるビサヤ語を勉強しながら、日系人会学校でボランティアとして働かせてもらい、先生たち、スタッフたちと仲良くなったところで、「日本に戻って、大学を卒業し、日本語教師の資格を取って戻ってくるので、そしたら雇ってくれ」と言ったら、喜んでOKをもらえました。

7年ほど日系人会学校で働きましたが、途中で学校が拡張して、大学までできたので、そちらでも教えていました。

 

ー現地での生活はどうでしたか?

現地採用なので、協力隊などと違って、給料が本当に現地の先生と同じくらいなんですよ。初任給は月給1万円でした。なので、家賃3000円のヤシの木を柱にしたようなツリーハウスに住んで、野菜中心の自炊生活でした。でも、週末は友達と海に遊びに行ったり、山に登りに行ったりと、お金をかけなくてもできる娯楽はたくさんあったので、すごく楽しい日々でしたよ。

 

ーHPにブルガリアに2年いたと書いてありましたが、ブルガリアに行ったきっかけや経緯を教えてください

フィリピンで日本語教師として7年ほど働き、教科書を作るプロジェクト、現地の先生を日本語教師として育てるプロジェクト、日本語を母語とする子の母語保持クラスを立ち上げるプロジェクトなどをやり、充実した生活をしていた私ですが、少しずつ物足りなさを感じるようにもなっていました。日本語教育という仕事で、本当に自分はフィリピンに「恩返し」ができているんだろうか?と思うようになってきたんです。私が働いているのは私立学校で、なんだかんだ言って経済的には裕福な子が集まる学校です。物乞いの子たちの前を素通りして学校で働いていることに、少しずつ違和感を覚え始めました。

悩んだ結果、何を思ったか神父になろうと思いました。まあ、そもそものフィリピンとの出会いが教会ですからね。わりと信心深い面もあるんですよ(笑)。

日本に戻り、修道院に入って神父になるための勉強を始めました。カトリックの神父になるためには、最低でも6年間、ラテン語、古代ギリシャ語、ヘブライ語、哲学、神学、ユダヤ史、西洋思想史、聖書学などを勉強した上で、社会奉仕活動や瞑想なども行わなくてはなりません。長い道のりだとは思いましたが、神父になってフィリピンに戻って、今度こそ自分にしかできないことをやろう、と思いました。

で、結果として半年で辞めました(笑)。向いてなかったんです。

それからまた職探しです。フィリピンの学校からは「人手不足なので戻って来て!」と言ってもらえたんですが、盛大な送別会を開いてもらい、「絶対神父になって戻ってくるからね!」と涙ながらに別れた生徒たちに、半年で「ただいまー」って言うのはさすがに気恥ずかしかったので、この機会に自分の可能性を試してみよう!と思い、「なるべくフィリピンに似ていない国」に住んでみようと思いました。砂漠っぽい国か、寒い国がいいなあ、と思い、そういう国で日本語教師の募集がないかと探したところ、ブルガリアの仕事が見つかりました。

ブルガリアにはそれまで青年海外協力隊が入っていて、日本語教師がたくさん派遣されていたんですが、ブルガリアがEUに入ることを機に、協力隊が撤退することになり、どこもかしこも日本語教師不足!という状態だったんです。うまいタイミングで行けました。

結局そこでも2年ほど、小中学校で日本語教師として働きました。ものすごく楽しい日々でしたよ。

ブルガリアの生徒と

 

楽器や似顔絵描きをやられているとのことですが、そのことについて教えてください。

絵はこどもの頃から大好きで、音楽のほうは教会でフィリピンの人に出会ったことがきっかけで興味を持ち始めました。高校に入って普通の楽器じゃ他の友達にかなわないなと思ってみんながやってない楽器をやろうと思いいろんな楽器に手を出しました。大学生になった頃にはすっかり楽器演奏芸人になっていたわけです。

似顔絵も、学園祭の時に似顔絵描きの店をやってみたら大当たりしました。「10分くらい初対面の人と向かい合って座って、楽しくおしゃべりをしながら似顔絵を描く」という似顔絵描きが自分に合っているというのを発見しました。

それで、楽器芸&似顔絵描きで稼げるのではないかとの野望をもち、路上や公園でやってみたり、イベントに出店したりしてみたら、これがまた大当たり。マジでこれはいけるんじゃないか?ということで、夏休みに観光地で店を出させてもらったら、大学生がアルバイトで稼ぐには半年くらいかかるくらいのお金を、ひと夏で稼ぐことができました。おお、もう俺はお金のために就職活動とかする必要はない、いざとなったら似顔絵描きで生きていけばいい。好きなことをやるぞ!と決心するきっかけとなりました。

ちなみに、その観光地での夏の似顔絵描きの仕事は、その後、フィリピンで教師になってからもずっと続けており、今でも続けています。薄給だった教師時代、もはや給料さえない現在も、その似顔絵描きの収入が、私の生活を支えています。

 

フィリピンでの恩返し

ーハウスオブジョイに参加したきっかけを教えてください

大学生の頃、バックパッカーとしてフィリピンじゅうを渡り歩いていたときに「隣町に孤児院を作った日本人がいる」とのうわさを耳にし、面白そうだと思って訪れたのが、私とハウスオブジョイの出会いです。

孤児院というのは普通、公的機関か教会、大手のNGOなどが建てるものであって、個人で「孤児院を建てる」なんて偉業を成すのは、ガンジーのような偉人か、マイケル・ジャクソンのような大金持ちじゃなきゃ無理だろう、と思っていたんですが、実際にその孤児院を作ったという人、烏山さんに会ってみたら、お酒好きの「ふつうのおじさん」だったのでびっくりしました。ただ、その経歴を聞くと、長崎出身、隠れキリシタンの末裔、マザーテレサに影響を受けて何かやろうと決意、農業を勉強しアメリカにて研修、協力隊でフィリピンに来て2年間従事、帰国して商社に入って12年間働き、社会経験、経済力、人脈を築いたうえで満を持してフィリピンに戻って来て孤児院を建てた、ということで、やはりタダモノではありませんでした

にもかかわらず、「すごい人オーラ」をまったく出さずに、とにかく楽しそうにこどもたちと遊び、好きなものを食べ、好きなお酒を飲んで嬉しそうにしている姿を見て、わたしはすっかり烏山さんのファンになり、その後日本語教師として働いていた頃もよく会いに行きました。酒を飲むたびに「いやー、俺はこんなだからさー、そんなに長生きはしないと思うんだよね。そしたらさ、ハウスオブジョイの続きはよろしくね」なんていう話をしていて、「何言ってるんですか、長生きしてくださいよー」とか言っていました。

その後、ブルガリアで美女と美食と超かっこいい音楽に囲まれて楽しく暮らしていたときに、フィリピンの友人から「烏山さんが倒れた」との連絡が入りました。大急ぎで烏山さんにメールを送ると「とりあえず命に別状はないが、完全に元通りに元気になるのは無理っぽい。できればフィリピンに戻って来て、ハウスオブジョイを手伝ってほしい」と返事が来ました。

ようやくブルガリア語も覚え、友人もでき、ブルガリア生活が本当に楽しくなっていたところだったので、相当悩んだんですが、「そもそも自分は何がしたかったのか」を考え、自分に「世界に出よう」と思わせてくれたのは誰だったのか、自分が音楽をやろうと思ったのはどうしてか、自分が日本語教育やりはじめたのはどうしてだったのか、改めて考えた結果、「やはり、今こそフィリピンに戻って『恩』を返そう」と決めました。

それで2008年、私はフィリピンに戻り、ハウスオブジョイで働き始めました。

 

ー今後のキャリアプランはどんな風に考えていますか?

孤児院やNGOというのは「かわいそうだから支援してください」というスタイルでお金を集めるかたちになりがちなんですが、私はハウスオブジョイを「楽しいから遊びに来てください」「楽しい楽器を作ったから買ってください」「楽しい話をするので聞きにきてください」「楽しく絵を描きますよ」というような、「楽しさ」を基軸にしたかたちでやっていきたいと思っています。そのためには、私自身が楽しむことが何より大切です。昔、わたしが烏山さんに会ってびっくりしたように、たくさんの若者に「こんな変な人でも孤児院ってできるのかよ!」と思われるような人になるのが、私の野望です。

 

ーフィリピンでのキャリアは自分にどのような影響を与えていますか?

ちょっと哲学的な話になりますが、今まで話してきたような経歴が、わたしという人格を非常に「劇場型」の人間にしているなあと思います。言ってみれば「嘘みたいなキャリア」です。なので、まるで本当のこととは思えず「わたし」がこういう性格の「澤村信哉」というキャラクターを演じているような感覚が、自分でもします。どこまでが演技で、どこまでが演出で、なにが真実なのか。そう考えるとクラクラしますが、わたしは最近ではそういう自分を受け入れて、自分でも知らないような「本当の自分」とやらより、みんなに知られているわたしのほうが、よっぽど大切じゃないかと思って楽しんでいます。たぶん、この質問への答え、大半の人には何を言っているのかサッパリ分からないと思いますけど、「自分さがし」とかをしている人には、ちょっとは参考になるかもしれません。そんなの心の奥底にはいないですよ。 

 

ーあなたにとってASEAN(フィリピン)を一言で!

世界の楽しさを教えてくれるところ」ですね。

ハウスオブジョイを応援する

取材後記

人との出会いは毎回ちょっとずつ自分に変化や刺激を与えてくれる。澤村さんも様々な出会いがフィリピンでのキャリアや彼自身をつくりあげていったのだなと感じた。こんなにも楽しさをキーワードに人生を生きている人に出会ったことがなく、それと同時に、波乱万丈にも見える澤村さんの生き方が少し羨ましいと思った。

自分も卒業後の進路を考える時期なので、自分にとっての「軸」はなんなのかを考えながら過ごしてみたいと感じた。




ABOUTこの記事をかいた人

吉田綾子

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