アジア最後のフロンティアミャンマーで優秀学生と語り合った春。ふつうの女子大生のわたしが味わった劣等感とは?

2016.11.07

わたし「春休みはミャンマーに行ってきます!」

友達「アジア? なんか危ないところだよね!? 大丈夫?」

こんにちは。わたしは現在大学2年生で立命館大学の国際関係学部に所属しています。今年2月にミャンマーのヤンゴン・マンダレーで9日間に渡って行われた、ミャンマー学生会議 (以下IDFC) に参加してきました。

ミャンマーはASEAN加盟国で、以前はビルマという名前だったので、“ビルマの竪琴”というお話で知っているかもしれません。

このIDFCは、ミャンマーと日本の学生各18人が生活を共にしながら、社会問題に対して解決に向けた議論を行い、その成果をシンポジウムなどの形で社会へと還元するものです。会議にとどまらず、現地の大学・公的機関・NGO/NPO等への訪問や、現場でのフィールドワーク、両国の文化交流など様々な活動を通して、相互理解を図りました。

実はIDFCで訪れたミャンマーが、私にとって初めての発展途上国でした。なぜミャンマーだったのか?その理由と実際に参加しての葛藤、得られたことについて書きたいと思います。 

なぜ“ミャンマー”で“学生会議”なのか

私とアジアの出会いは、高校時代に広島を考える旅という原爆投下について考えるプログラムに参加したときのこと。

アジアからの参加者の自分とは違う観点からの意見と対面で議論したことで大きな刺激を受けました。海外と日本の関係についてもっと学び、議論したいと思い、国際関係学部に入学。講義のスライドで見る東南アジアの食事や文化、雰囲気に徐々に惹かれていきました。

その時はまだ、アジアは世界史の授業でも駆け足で教えられる地域だったこともあり、地理的には近くても精神的にはとても遠く感じていました。

そんなある日、英語の講義にIDFCの広報の方が来てプレゼンをしてくださって、その熱意にすっかり圧倒され、また“ミャンマー”というあまり見かけない国名に惹かれて応募しました。

私が参加した第2回のIDFCのテーマは“コミュニティディベロップメント”。このテーマに沿ったコンテンツを通して、メンバー間の関係性も密になっていきました。

idfc-3ルームメイトと移動のバスの中で

ホテルの部屋はミャンマーの女の子と2人でシェアしていたため、いつもおしゃべりしていました。

お互いの育ってきた環境、将来の話…。同い年だったこともあり、共通点もあった一方で、当時大学1年生だった私とは違い、彼女は大学3年生でインターンシップをしていました。

ミャンマーの学校制度では小・中・高は、5・4・2制。大学は4~7年 (学部によって異なる) 。同い年でも高校を出て間もないわたしと、大学生活も後半に差し掛かる彼女では踏んできた場数が違い、自分の国のことをよく理解し、自分たちが変えていくのだという能動的な態度に感銘を受けました。

この態度はミャンマーに住んでいる誰もが持っているのではなく、このプログラムに参加しているメンバーの多くが高等教育を受けていて、これから国を担っていく人材ばかりだったからです。

ミャンマーは多民族国家なので、たった20名ほどのメンバーでも出身の民族はさまざまでした。同じ国に住んでいても違うバックグラウンドを持つ彼らと、わたしたちがどのように“コミュニティ”を形成していくのかを考え発信することで、実際に2つの国が繋がっていくのを肌で感じました。まだ若いわたしたちが今後、社会に影響を与えるには、一旦外から自分の国を客観視してみることも必要なのだと気づく機会となりました。

やっぱり学生会議は甘くなかった...

すっかり何もかもうまくいっていたように見えますが、プログラム中盤に差し掛かったころ、わたしは初の途上国滞在に体が対応しきれず、お腹を下して2日ほど寝込んでしまいました。

正直、日常会話なら問題ない程度の英語運用能力しかない私にはハードルの高いプログラムでした。なぜなら、他の参加者は帰国子女や、留学していた人ばかりで英語に問題のある人などほとんどいなかったからです。

覚悟はしていたのに、いざ飛び込んでみればミャンマーメンバーの思考・言語レベルの高さに圧倒され、日本メンバーにも追いつきたい一心で無意識にずっと緊張していたようで、出先から戻ったホテルの部屋に一人きりになってホッとしている自分に気づきました。それまでの人生で、所属するコミュニティで自分が能力で一番下だと感じた経験がなかったために、強い劣等感を感じました。

idfc-1プログラム中に食べたミャンマー料理

関西国際空港が上空から見えてきたとき、これで今飛行機が墜落しても私は日本で死ねる!と内心喜び、2度と日本から出るものかと思ったほど弱っていましたが、体調が回復してみれば、ミャンマーにまた訪れたいという思いと、メンバーに会いたい気持ちで心がいっぱいになっていました。

それは、挫折を味わったあとにただ落ち込むのではなく、いきなり他のメンバーのように英語を話せるようにならないまでも、できることを探そうと決めて、グループの中で自分に求められている役割に気づくことができたからです。最後までなんとかやりきったことで、次につながる自分の弱み・強みをどちらも見つけることができました。

雑多な騒音やインフラ整備の整っていない町に圧倒されながらも、普段の日本での生活との違いに惹かれ、また必ず東南アジアを訪れることを決心したわたし。挫折した経験をそのままで終わりにしたくなかったのと、尊敬できるメンバーたちがアジアの何にそこまで魅了されているのかを知りたくなったからです

挑戦した先にあったもの

このプログラムで得た教訓は、住んでいる場所や人種は違っても考えを共有することができれば、コミュニティを作ることができるということです。この場合コミュニティとは継続的な人の繋がり、いわば人脈のことです。IDFCを通して知り合ったメンバーは、誰もがそれぞれ良い意味で違うことで、化学反応を起こして新しい考えを得ていました。

そして、目標をしっかりと持っていて、それに向かって具体的な行動をとる人ばかりでした。自分にはない観点を持ったメンバーと出会い、今後も続くコミュニティの一員となれたことが一番の財産です。

idfc-4フィールドワークでの学びを基にショートムービーを制作したときのグループメンバー